2009年9月26日 (土)

【Ferienjob】

Ferienjob(フェーリエンジョプ)(男):学生アルバイト …… ご存知の方も多いと思うが、アルバイトとはドイツ語で「仕事」を指す。学生などが休暇中に行う小遣い稼ぎなどはこのFerienjobを使う。Ferienarbeitという語もあるが、これには休暇中の課題(宿題)の意味もあるので日本語の学生アルバイトならFerienjobと表すのが適切。最近日本では、いい大人でもアルバイト待遇の人が多く、Ferienjobを単に「アルバイト」とは訳せなくなってきている。悲ピー。

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 多くの人がそうであったように、わたしも社会人になる前にはいくつかのアルバイトを経験した。

 生まれて初めてのアルバイトは、高校生の時に卓球部の仲間と一緒にやった、近在の電報局での年賀電報の配達のアルバイトだった。部員のお母さんが電報局で働いていたことから湧いてきたFerienjobだった。電報局に詰めていて、電報が届いたら住所を確認し自転車に鞭当てて年の瀬の空気を突っ切って疾走していた。遊軍的な動きの仕事で、結構楽しかった。この頃から将来フリーランスで働く下地が磨かれていたのかも知れない。

 それ以降、某有名スーパーの家電売り場で扇風機担当の売り子をしたり、某有名百貨店の缶詰め売り場でお中元商戦に参戦したり、家庭教師のようなこともしたし、某有名通信教育で現代国語の添削をしたり、レコード流通会社で埃にまみれながら返品整理を担当したりもした。

 いちばんきつかったのは、某クリーニング「工場」での流れ作業だった。このクリーニング工場は主にリネンのクリーニングを請け負っていて、具体的に何が回ってくるかといえば大抵は近在のラブホテルのシーツだった(ロゴ入り)。洗濯の終わったシーツを伸ばして大型のシーツ用アイロンのローラーにかける仕事だった。これが息を抜く暇がなくて、これほどみっちり働いたことは今日に至るまでない。フリーの翻訳者になってどんなにタイトな仕事が来ても、息を抜く余裕は正直言ってたっぷりとある(でなければ、ろくな仕事にならない)。身体は辛かったが、近在のラブホテルの名前は沢山覚えた。ただし、その知識が役立つことは一度もなかった (^m^)

 学生時代のバイトでいちばん楽しかったシーンのことを思い出した。

 それは、大学一年生か二年生の冬休みのバイトで、兵庫県K市にある有名スーパーDでのバイトだった。以前尼崎の我が家の隣に住んでいたご家族がK市に引っ越していき、その奥さん(つまりわたしにとっては隣のおばちゃん)がスーパーDでパートをしていらしたのだった。真面目な子を探しているからとわたしに話が回ってきた。わたしは、幼少時から大人を騙すことにかけては可成りの才能を発揮していたのでこれは当然であった。

 このスーパーDは後に某プロ野球チームを所有することになるのだが、その後経営不振でプロ野球チームからは手を引いた。そのプロ野球チームは、今では島帰りの男の二の腕に入れられた入れ墨のような二本ラインをユニフォームの腕に入れていることで知られている。元々は関西の電鉄会社のチームだったのだが、巡り巡って今は日本の西の方の島にその本拠を置いている。わたしがバイトしていたのは、まだスーパーDがプロ野球チームとは何の関わりもなかった時代である。

 夏休みにそのスーパーDの家電売り場で扇風機を売っていた。そして、その続きで冬休みには「受け渡し場」での仕事をさせて貰った。冬には扇風機を売らない方針だという理由である。冬の受け渡し場は吹きっ晒しでたいへん寒かったが、仕事が多かったのでそれほど寒い思いもしなかった。一個あたりは小さい荷物が大量に入荷したようなとき、例えば細長い段ボール箱に入ったネギが2トン車一杯着いたと言うようなときは、トラックの扉からパレットやケージの位置まで、その辺にいる男達がジグザグに向かい合って並び、品物がジグザグに飛んで行くように、一種のバケツリレー方式で荷受けするのが面白かったのだが、もっと楽しく働いたシーンがある。

 受け渡し場のすぐそばに鮮魚売り場のバックヤードがあった。品出しの担当者が休みだとかで、夕飯の買い出し客の増える時間帯、すなわち三時の休憩の後から五時まで、わたしともうひとり気の小さそうな美形の学生アルバイト君とが二人応援に入った時のことだった。

 鮮魚をパックにして値札シールを貼ってトレーに入れる担当のおばはんのところに連れて行かれた。

おばはん:「あんたら根性あるんやろな!」

樅の木:「あります!」

相棒:「は、はい……」

おばはん:「(美形の方を見ながら)大丈夫かいな? 元気な方の兄ちゃんも口だけとちゃうやろなあ?」

 なにやら意味もなくアグレッシブなおばはんであった。「兄ちゃん、タイヤキに鯛入ってるか?」とか「なんやったら鉄板焼きにテッパン入れたろか!」とか叫んだら似合いそうなおばはんであった(謎爆)。とにかく、そこにおいてある魚を場所聞きながら品出しせいと言われ、わたしと気の小さそうな美形の相棒は鮮魚売り場のバックヤードを駆けずり回り始めた。

 最初はもちろん慣れていないので仕事も遅い。

「ちゃっちゃとせんと、いつまで経っても終わらへんで!」

 相棒は最初小さくなっていたが、だんだん機嫌が悪くなってきていた。顔を見ればわかる。この気の小さい相棒ですらそうなのであるから、わたしはもっと仏頂面をしていたに違いないが、鏡を見る暇もなかったので事実は永遠に謎である。まあ、「あの人いっつもあんな悪態ばっかりついてんねん。気にしたらあかんよ」と教えてくれた別のパートの若奥様が「あんたえらい仏頂面してるで~」と言ってはいたが、目が悪いだけかも知れないではないか。

 ちょうど隣り合ったところで品出しをしているときに、相棒がわたしに言った。

相棒:「あのおばはん、腹立つ~」

樅の木:「仕事でなかったらケツ蹴ってるとこやな」

相棒:「ひと泡吹かせたりたいなあ」

樅の木:「戦うか?」

相棒:「戦うって?」

樅の木:「思いっきり早よう品出しして、あのトレーの山空っぽにして、『おばはん早よせんかい』て言うたるとか」

相棒:「できるかなあ?」

樅の木:「できるかどうかより、やりたいぞ俺は」

相棒:「言えてる! やろ!」

 それから青年樅の木と気の小さそうな美形の相棒は、青筋立てて稲妻のように鮮魚バックヤード内を三倍速ぐらいで縦横無尽に走り回った。冬の鮮魚売り場バックヤードという、暖かさの欠片もないような環境ではあったが、わたしと相棒は珠の汗を顎先から滴らせながら(もちろん品物にはかからないように気を付けていた)、顔を真っ赤にしながら息を弾ませていた。すべては、「おばはん早よせんかい」とひとこと言ってやるためにであった。

 おばはんの脇に積まれたトレーの山が低くなる。富士山が八甲田山になり、さらに筑波山になり若草山へと変わっていく。すると、だんだんおばはんの眼の色が変わってきた。残されたトレーの枚数が5枚前後になってからがまさに鍔迫り合いであった。丁度今のセ・リーグの三位争いのようなものだ。品物の陳列場所がわかっている場合は、ひゅっと飛んでいってしゅっと戻ってくる。トレーはどんどん減って行く。しかし、陳列場所がわからない場合は場所を教えて貰ったりして時間がかかり、残り2枚だったトレーが6枚に増えていたりする。

「あ、あんたら、あんたらなあ…」

 おばはんは何か言おうとしているが、仕事中に無駄口叩いている暇はないのだ。それくらいのモラルもわかっとれへんのか? と、わたしも相棒もそれには取り合わずに、ただひたすらにトレーを抱えて飛んだ。周囲もこの鍔迫り合いの意味がわかっているらしく、仕事をしながらちらちらとこちらの様子を窺っている。興味津々の「頑張れ!」の視線を背中に感じて、青年樅の木と相棒は燃えた。

 2枚残ったトレーにわたしと相棒が同時に飛びつく。品出し場所に飛ぶ。品出しして戻る。トレーは1枚も残っていない。(やった!)と思ったら、おばはんも残っていなかった。

「お~い、ご苦労さん。もう五時やから上がってええで~」

 鮮魚主任のお気楽な声が聞こえた。タイムアウトだった。残念!

 トレー溜まりでしゃがみ込んでぜいぜい言っているわたしと相棒。そこに件のおばはんが疲れ果てた顔をしてやって来た。

おばはん:「もう、あんたらにはかなわんわ~」

樅の木:「惜しかった……」

相棒:「もうちょっとやったのに……」

おばはん:「わたしここで働いてて初めて、こんな時給でやってられん、て思たで。ほんま、たいがいにして欲しいわあ」

主任:「いや~、二人ともえらい機敏やったなあ。また来てくれるか?」

おばはん:「もう来んといて! いつものぼんくらでええわ!」

一同:爆笑 (^o^)/

 翌日、いつものぼんくら氏が「バイトの方がよっぽど役に立つとか言われてえらい災難や」とぼやいているらしいと言う噂を聞いた。実際、わたしと相棒が応援に入った日の夕方の鮮魚売り場の売り上げはいつもより良かったと言われた。わたしと相棒は、『今度こそやるぞ!』と固く誓って、仕事が終わった後、売り場に回って鮮魚の陳列位置を確認するほど入れ込んでいたのだが、いつものぼんくら氏はそれ以降休まずに仕事に来ていた。リベンジの機会に恵まれないまま、受け渡し場で件のおばはんを見かけた時に相棒と二人で手を振ってやったらおばはんは照れていた。

 そして冬休みはあまりに短かった。しかし、件のおばはんはもはや憎たらしくはなくなっていた。

 あれから三十年以上が経つ。いまではわたしも相棒も、当時の件のおばはんよりも年かさになった。件のおばはんはまだ元気で生きているのだろうか? あの気の小さな美形の相棒は、今頃どこで何をしているのだろう?

 北海道の女房の実家から送られてきた鮭一本の勇姿を見ながら頭をよぎった、遠い日の想い出であった……

 

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2009年9月21日 (月)

【Evolutionstheorie】

Evolutionstheorie(エヴォルツィオンステオリー)(女):進化論 …… この他にも、DeszendenztheorieEntwicklungslehreAbstammungslehre等の語が使われる。ダーウィンの著書「種の起源」は原題「The Origin of Species」で、ドイツ語では「Die Entstehung der Arten」と訳されている。

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 ネット上で少々気になるニュースを読んだ。

「ダーウィン映画、上映拒否?」

 イギリスの博物学者チャールズ・ダーウィンを描いた映画『クリエーション』が、アメリカでの上映を見送られる公算だと言う。

 わたしも在独時代に学齢期の子供を持つ人が多数知り合いにいたので、学校における進化論の扱いについて聞かされたことがある。内容がどうであったかあまり良く覚えていないが、ドイツの学校では「宗教の時間(授業)」があり、それも新教と旧教に別れており、しかも結構な数がいるイスラム教徒(トルコ人の子弟など)は授業に出席しなくても良いとされていると聞いた。テストなどはないのではないかと思うのだが、公教育で宗教について教えると言うことを知らなかったのでわたしは驚いた。進化論についても、宗教の時間で語られることとは矛盾するのであるから、「これには反対意見もある」と教わるのだと知人は言っていたと記憶するのだが、この辺がどうも曖昧である。しかし、相反するふたつの視点を同じように教えると言うことは良いことだと思う。

 ドイツに日本人が暮らしていれば、その周囲にいるドイツ人は大抵は日本人に日本のことについていろいろと質問する。日本人の方は、あれこれと苦労しながら日本のことを説明する。それだけではなく、ドイツのことについてもいろいろと聞かされる。当然である。

 そんなお互いが良く知らないことについて語るときに、「異論」が出てくることもしばしばであるし、「何故?」と聞かれることもしばしばである。そして、その逆も同様に多い。そう言うときに感じたのは、反対意見を持っていても取りあえず相手の話は聞くと言う姿勢の人が多かったと言うことだった。もちろん、東洋人の言うことなどハナから聞く耳持たぬと言う輩もいたが(まだまだそう言う時代だったとも言えるか?)。

 件のニュースによると、米国では進化論を信じている人が39%だと言う。「信じない」+「わからない」で61%と言うことになる。そうかも知れないと思う。ドイツ暮らしでの経験が多少あるのであまり意外ではない。とは言え、彼ら、すなわち進化論を信じない人達も動物が進化をすると言うことについては大部分が認めているのではないかと思う。争点となるのは、「人間も下等生物から進化してきたのか、あるいは聖書などに書かれているように神によって創造されたのか」と言うことだろう。

 これを科学が証明するのは難しいし、否定することもまた難しいだろう。人類の現状はこれについては「わからない」のである。だから、「わからないこと」として受け容れれば良いと思うのだが……

 進化か創造かと言うところからは離れるが、進化にしても創造にしてもあるいはもっと他の現在の科学で究明し切れていないさまざまな事柄について、「頭から信じる」のと「頭から否定する」のとは、どちらも科学的なレベルは同じだろうと思う。科学的であろうとするなら、科学で究明しきれないものについては「わからない」とするのが科学的なのであって、それをどちらかに無理矢理軸足を据えてしまうのはすなわち非科学的である。

 上記の映画についてであるが、これを上映拒否にしてしまうのはなんとも硬直した姿勢だと思う。人には誰でも自分なりの思い入れというものがあるので、なかなかすべてに対してニュートラルでオープンな姿勢を貫くのは難しいと思うが、ダーウィンについて取り上げた映画を「進化論を信じない人が多いから上映拒否」とするのはいかがなものかとわたしは思う。映画は、進化論とキリスト教との狭間にあるダーウィンの苦悶を描いたと言われている。どういうないようなのかは全く知らないのだが、タイトルも「エヴォリューション」ではなく「クリエーション」だというのであるので、どういう切り口の映画なのだろうか、と少々興味を引かれるのだが……

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2009年9月11日 (金)

【Übertreibung】

Übertreibung(ユーバートライブング)(女):やりすぎ、行き過ぎ …… 人はしばしばやりすぎる。何においても。丁度良いところがどこかわからないでもないのに、それに何故かオマケを付けたがる。そして、オマケ合戦になっていつの間にか丁度良いところを遙かに越える。そうすると、丁度良いところに戻るのではなくすべて御破算にしたりする。

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 インターネットで配信されるニュースをよく読む。速報性が求められないものの場合、ネット配信された記事の方が新聞紙面に載る記事よりも一日早いと言うことがよくある。

 今日もネット配信のニュースを読んでいたら、妙なものを見つけた。

馬へのムチ使用制限に反発 豪州で騎手ストライキ

 オーストラリア競馬会で、馬への鞭の使用制限が導入されたそうで、これに反発した騎手らが、同国各地の競馬場でストライキを実施し、レースが中止される騒ぎに発展したと言う。

 この鞭の使用制限の理由は、読む前にだいたい想像が付くが「動物愛護」であった。この規則では、鞭の種類や使用回数を制限し、違反すると罰則が適用される。実際に罰則の適用を受けたスター騎手がいるそうで、騎手協会は「回数なんか数えてられるか」と反発しているそうだ。新規則ではクッション材の入った打撃を和らげる鞭の使用を義務付けたほか、使用法や回数の厳格な制限を設けているそうだ。

 これを下らないと思うのはわたしだけではないだろう。

 そもそも人間の感覚を人間以外の動物にも適用するというのが馬鹿げている。例えば、人間が食べて美味しいと思うからといって、人間の食べるのと同じものを犬猫に与えていたらそのうち身体を壊す。牛などなんの味付けもない草を食べ、それであのような美味しい肉ができるのは不思議なことである。人間が嫌なことは動物も嫌なはずだと考えるのは人間の思い上がりではないか。馬だってもしかしたら、むちでしばかれて却って気持ちがよいのかも知れない。人間でも時々そう言う人が居るぐらいだ。大昔、桂三枝が「鞭でシバいて~♪」というギャグを流行らせたこともある。

 冗談はさておき。

 こういう話を聞く度に「胡散臭さ」を感じる。動物愛護について語りながら、誰かが「馬に鞭が当たるのを見るのが辛い」と言ったとして、別な誰かがそれよりさらに良いことを言おうとして「鞭をもっと柔らかくすればいいのに」とか言えば、それよりもさらに…… と、オマケが重なって一般的に首をかしげたくなるような規則が生まれたのではないかと疑ってみたくもなる。

 別に動物愛護だけに限った話ではなく、「本当に何かの向上や改善を考えての意見」もあれば、それに対して「ただの自己主張」、「自己満足のための発言」も入り乱れるのが人間の世界ではないか。それでも、民主主義の世の中だと、「自己満足派」の数が多ければそっちに落ち着いてしまう。衆愚政治でギリシャは滅んだと言われているが、世界的にそうなりつつあるような気がしないでもない。独裁政治が良いというわけでもなく、共産制が良いとも思っていないが……

 ファウスト第二部にケイロンと言う人物(半神)が登場する。ギリシャの神殿に潜んでいるマントに「相変わらずいつも馬にまたがって駆け回っていらっしゃいますね」と言われたのに対し、「お前が好んでいつもひっそりと閉じ籠もっているように、このわたしには駆け回っているのがたのしみなのだ」と答えている。何が楽しいかは人それぞれ。

 もし馬がしゃべれたら、「皆さんが撫でられいたわられるのがお好きなように、わたくしは鞭打たれて疾駆することが無上の喜びなのです」と答えるかも知れない。もちろんそうでないかも知れないが。しかし、鞭打たれることが苦痛であるなら、その鞭打つ馬上の人を馬はまず振り払おうとするのではないだろうか。それをしないのは、気持ちよいかどうかはともかく、鞭打たれて走ることは、馬の自然な習性の許容範囲内にあるのではないかとわたしは思う。鞭の使用制限の規則は、それを見る人間の精神衛生および自己満足のために作られた人間のための規則であって、馬の良かれを想った規則ではないと言えるだろう。

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2009年9月 2日 (水)

【Moxa】

Moxa (モクサ)(女):もぐさ、灸 …… これは日本語が起源なのだろうか? 英語でもmoxaで通用するらしい。これに関する言い回しでは、jm. et. zu fühlen geben、誰かが何かを感じるようにする → 感じざるを得ないように仕向ける、と言うものがある。

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 今回の総選挙はお灸選挙であった。

 民主党の勝ちっぷりはあまりにワンサイドで、却ってフロックだと思われる。今までの何十年分の不満が一気に来たと言うところだろうか。気分に左右された選挙だとわたしは思う。

 海外のメディアがこの総選挙についてどう伝えているかも、各紙で報道されている。

 フランクフルター・アルゲマイネ紙(FAZ)の論調は、見出しこそ「日本のケネディが目標に到達」とされているが、内容は辛めだ。

 まず鳩山一族について、鳩山一郎元首相を始め多くの政治家を輩出した家柄であると紹介し、また鳩山由紀夫氏の祖父の母方がブリジストン創始者の石橋家であり、大変裕福な家柄であると紹介し、今回の選挙で鳩山氏はこのような政財界のエリートの血を引く出自であるのも関わらず、庶民の代表として振る舞ったと書いている。さらに、子供手当などの具体策について列挙したあと、彼自身は父から地盤を受け継いだにもかかわらず世襲議員を批判し、これを減少させたいと考えていると伝えている。鳩山氏の計画とその経歴との矛盾は選挙に影響しなかったとし、これはほぼ50年間にわたって政権にあり続けてきた自民党への嫌悪感が強すぎ、政権交代への欲求がこれより(鳩山氏の矛盾点)も強かったためであるとする。そして鳩山氏は、彼が実行することを約束した改革を行うための全権を手にしたとしている。これは、むしろ公約を本当に実行できるのかどうかについての極めて遠回しな疑問符なのではないかと読んでしまうのは、わたしが民主党嫌いだからかもしれないが、それを差し引いてもFAZ紙の論調は可成り辛めだと思う。この他にも代表になってまだわずかであること、選挙前に政治献金について違法性を指摘されたこと(しかし選挙には影響しなかったこと)、さらには夫人がもと女優で、精神世界に絡む著作をものしており、鳩山氏自身にもその傾向があり世間離れした面があると言われていると紹介している。最後に、鳩山氏は選挙戦を彼は実務的によく考慮して戦い抜いたが、「日本を変える」という大きな公約を掲げたとしている。

 またヴェルト紙は、「民主党は(選挙の)勝者として大きな使命が待ち受けており、(それを果たすには)幸運を必要とする」と最初のパラグラフでいきなり書いている。そして、有権者の自民党への嫌悪はまだしばらく続くだろうが、いつまで続くかはわからないとしている。やはり、今回の選挙を単なる「自民党の負け戦」であり「民主党の勝利ではない」と考えているのが明白である。

 わたしが民主党に何かを望むとしたら、外交面でヘマをしないことである。政権が変わるたびに外交がコロコロ変わっていては対外的な信用も損なわれるし、海外で暮らす日本人にどんな影響が出るやも知れない。いつまで続くか分からない民主党政権の間に、自民党が解党的な改革を推し進めること、あるいは政界再編によって新しい真面目な保守政党が誕生することにむしろ期待したい。

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2009年8月26日 (水)

【Partei】

Partei(パルタイ)(女):政党 …… 政党以外の意味で使われることもある。政党とは、「共通の原理・政策をもち、一定の政治理念実現のために政治権力への参与を目的に結ばれた団体。政社」と広辞苑第二版に定義されている。

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 もうじき総選挙である。我が家にも入場整理券が送られてきた。住民として社会的に認められていることを確認できるという点で、これは定期的に行われることの意義がある。

 政権政党が変わるだろうと見られているが、どっちもどっちだと思っている人が大半ではないだろうか。

 自民党がだらしないのは政治に興味のない人でも感じることだろう。今回、政権政党が変わっても、それは民主党に期待してのことではなく、単に自民党に愛想が尽きただけのことだろう。自民を降ろしても何も変わらないのではないかと思いつつ、降ろさずにはいられない。

 しかし、民主党が結党したときからわたしは胡散臭いものを感じていた。民主党と名乗る政党に、旧社会党の議員が含まれていることがその理由の大半である。彼らはイデオロギー的に「転向」したのだろうか? そうではなかろう。もし彼らが、社会党員だった頃にやりたかったことを、今でも「民主党員として」やりたいと思っているのだったら、こんな人を馬鹿にした話はないと思う。民主党は、政権を取るために人数を集めただけの「烏合の衆」なのではないかと思う。防衛や外交面での政策が、党内でも一致していないと聞く。こんな政党とも言えない集団に政権を任せたくはない。

 かといって、自民党が良いのかというと、一度「お仕置き」が必要だとも思う。わたしは個人的には真面目な保守政党に政権を担って欲しいと思っているが、自民党がそれだとは思えない。その昔、「自・社・さ」連立等という信じられない芸当をしてくれたこともある。民主党はもっと違う。一党がすでにある意味自社連立なのだから、もはや政治理念がどこにあるのか窺い知れない。自民も民主も選挙用マニフェストなど信用できぬ。どちらも政党と言うよりはただの議員集団だ。

 だのに、入場整理券は送られてくる。どうせいちゅうねん。

 政界は一度シャッフルしてみてはどうか。ガラガラポンの大がかりなやつを。看板と中身の一致した政党を結成して、軸のぶれない政策で国家を運営して欲しい。自民党も民主党も、政党としてのスタンスがハッキリしない。これでは比例代表の投票のしようがない。今回は政権選択の選挙と言われているが、選択肢が空白の二択テスト問題を見るような気がする。CDUにでも入れたろか?

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2009年8月17日 (月)

【Widerholung】

Wiederholung(ヴィーダーホールング)(女):繰り返し …… 日本語化した英語ならリプレイと言うところだろうか。人生には繰り返してみたいものもあれば、二度と繰り返したくないものもある。一般に後者の方が多いらしいが、それが勉強と言うものかも知れない。

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 ところで、人生そのものは決してリプレイできない。誰もがそう思っている。

「あの時、ああしていたらどうなっていただろう?」

「あの時、ああしていなかったらどうだっただろう?」

「あの時、あの娘と結婚していたらどうなっていただろう?」

 などなど、決してリプレイできない故に妄想は膨れあがる一方だ。

 ところが、わたしはその決してできないはずのリプレイをしてしまったのである。

 別に不思議系の話ではないのだが……

 わたしが新卒で就職した某社は、衣料品関係の商社だった。商社と言っても機能的に商社であるだけで、巷では商社と言うよりはアパレルメーカーとして通っていた。

 周囲の人は「哲学科を出てなんでアパレルに?」と疑問に思っていたようだ。わたしとしては、哲学科に進んだのは美学専修で音楽美学をやりたいという動機があったので哲学科を選んだのだが、就職については何も考えていなかった。

 むしろ、就職のために進学先を選ぶのは「汚い」とまで考える書生頭であった。わたしが大学進学する前の頃は、「何故猫も杓子も大学へ行くのか?」とか、「大学へ行く意味は?」とか言う問いかけが同年代の間で頻繁になされていたような記憶がある。大学へ行って熱心に勉強するよりも、勉強以外のいろんなことを体験する方が人間の幅が拡がると言う考え方の方が優勢だったと記憶しているし、実際そう言う学生が大勢いた。熱心に勉強する学生はどこか「小物」のように思われていたように記憶している。

 本来なら(今思えば)、大学というのは熱心に勉強するところであり、そこで学んだことを社会に出て役立てるのが尊いのであるが、そう言う考え方はあの頃は可成り手厳しく排斥されていたように思う。日本の大学が駅弁大学化していて、大学とは社会に出るまでのモラトリウムとさえ言われていた。大学に進学する動機も、本音は「良い会社に就職するため」であり、その就職とは(その本人にとっては)大学名という看板でなんとかなる程度のもの、と言うケースが多かったのだろうか。だから、社会に「大学進学の意義」について疑問を呈する論調が幅をきかせていたのだろう。

 最近の大学がどうなのかわたしは知らない。しかし、「全入時代」とも言われる現代である。大卒の肩書きがあっても潰しは効かないだろう。また、会社に身を寄せると言うこともそれほど大きな安心にはならないご時世である。まあ、大学で何を学び何を経験するのかについて考えると、奥が深すぎてどうにもならないので、閑話休題。

 わたしは、新卒でアパレルの会社に入った。そして、しばらくは営業で頑張っていたし、そこそこの成績もあったのだが、体をこわして退職した。それから運命の悪戯によって、他人に言えないこともいろいろとこなし(?)、今日こうしてドイツ語の翻訳を生業にしているのである。この人生をリプレイすることはできない。もしも体をこわしていなかったら? それは誰も知らない、知ることはできない。それが普通だし、実際にわたしがその「もしも」の人生を実際に確認できたわけではもちろんない。

 

 新聞を開くと、わたしは必ず株式欄などに目を通す。

 為替レートは仕事にも直結するし、株価などもざっとは目を通しておく方がなにかと役に立ったりする。そのとき、昔勤めていたあの会社の株価もチェックするのだ。「元気かな?」という程度の意識なのだが……

 その会社の株式が、ある日見えなくなった。

 監理・整理銘柄になっていたのだ。不渡りを出したのだった。資金繰りについてはまだ不透明なようで、もしかすると倒産と言うことになるかも知れない。その兆候は以前から薄々感じていたので、それ自体は驚きではなかったが、わたしがもしその会社に居続けていたとしたら……? 実際はそう言うことはあり得ないのだけれど、居続けていたらこの年齢であるからそこそこ責任のある位置に居たはずだ。そしてやっと人生半世紀をやりすごしたこの時期に会社がこの状態になっている。

 もっと言えば、内定が出る寸前まで行って結局肘鉄を食らわせた同業界の某社も、同業界の大手の完全子会社になっている、それも今年。どっちの会社に入っていても、そこに居続けていたら(つまり会社内ではある程度の成功を成し遂げてリストラもされずに生き残っていたら)、それでもこの時期には遂にアウトと言うことになっていただろうと思う。そうすれば、この年齢になってしかもこのご時世で失業ということになり、子供もいたかも知れないし、家のローンもまだ残っていたかも知れない。今のわたしの現実の状況よりずっと厳しいorz

 実際は、わたしは会社組織でうまくやっていくとか、得意先相手に営業で華々しい実績を上げる等というような資質は持ち合わせていないので、決してそうはならなかったはずだが、それでもこの想像はずっしりと来るものがある。現在、この百年に一度のなんとやらのお陰で、自営業者は大変なのである。サラリーマンが羨ましくなったこともあるのだ。

 そこでこの事実。

 今この年代で経済的(もしくは経営的)な苦しさを味わうことは、すでにセッティングされていたかのような感覚がある。

 これがこの文章で「リプレイしてしまった」と書いたことの中身なのだが、まあこれをリプレイと呼ぶのは適切でないかも知れない。ただ、この新卒で入った会社の苦境を知るということを通じて感じたことは、久しぶりに少し心に染み込んでくる味があった。「たら」を考えるべきではないといろんな機会で言われるが、それは「リプレイできないから考えても無駄」だからではなく、どこでどう選択していても、「たら」の人生に入っていっても、結局同じ結果を体験することになるように思う。それは、人生での出来事というのは、幸不幸を問わずその人にとって必要なことであり、その人の中身が変わらなければ必ず訪れてくることなのだと言う感覚である。

 平たく言えば、「堅苦しい人」は、人生のどんな場面でどんな選択をしていても、その(おそらくは人から歓迎されないであろう)堅苦しさの故に似たような運命をたぐり寄せるということに似ている。「怠け者」しかり、「優柔不断」しかり、悪い面ばかりではなく「明朗快活」しかり、「頭脳明晰」しかり……

 過去を振り返って「もし~たら」を考えることの不毛さ感じた。

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2009年7月 4日 (土)

【Holzbau】

Holzbau(ホルツバウ)(男):木造建築 …… 材木でできた建築物のこと。日本の伝統ある神社仏閣などに代表される建物だけが木造建築ではない。広義には材木でできていれば何でも木造建築である。この場合、窓ガラスやドアのノブや錠前などは材木でなくても良いのであるから、人間も随分と融通の効く生物であることがわかる。

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 わたしがぴかぴかの1年生だった頃、わが母校にはまだバラックの校舎が建っていた。時代はまさに高度成長期。東京オリンピックの年にわたしは小学生になったのであった。街には近代的な鉄筋コンクリートの建物が建ち並び始めていたが、同時に古い建物も沢山残っていた。

 コドモの数も多かった。ひとクラスは45名程度で、小学校ではそれが6クラスあったのだから、1学年でおよそ270名前後居たはずで、それが6学年だから単純計算で1620名の小学生が学校に居たことになる。

 校舎は3棟あり、それぞれ北校舎、中校舎、南校舎と呼ばれ、南校舎が運動場に面していた。そしてそれらは皆バラックの校舎だった。さらに、南校舎の脇に独立した1棟で図書室があった。確か8角形の平屋で、わたしはこの図書室が好きだった。そして、運動場の中ほどには用務員室があり、用務員さんが通いだったのか住み込みだったのか把握していなかったが、随分殺風景な用務員室であったので通いだったのではないだろうか。そう言えば、男の先生には宿直が当番で回ってきていたのだから、そこを考えても用務員さんは通いだったのだろう。

 今でも昔ながらのたたずまいの校舎を持つ学校が少しだが残っているらしい。現代の鉄筋鉄骨コンクリート建築の校舎と比べて、何か暖かみのあるホッとするような印象を持つのは、何も実際にバラックの校舎で学んだ経験や怠けた経験を積んだ人ばかりではあるまい。

 材木、木というものは良いものである。ドイツなどでは今でも木のおもちゃが愛されている。

 知人の娘さんが木の立方体のパズルをして遊んでいた光景を思い出す。ドイツでこれが何と呼ばれていたか記憶にないのだが、立方体の六面それぞれに絵が印刷されているか、あるいは絵が貼り付けられているものだ。大抵はドイツの童話から題材を取ったものが多かったと思う。そんな立方体が12個ぐらいあって、それを並べて絵を完成させる。つまり6種類の絵のパズルが楽しめるものである。パズル自体としては他愛もないもので、それで遊べるのは5歳ぐらいまでだろうか?しかし、これが子供の情操には随分良いだろうなと、自分の子供もこういうもので遊ばせたら良いなと、当時独身で理論的にはどんな女性でもよりどりみどりと言う恵まれた状況にあったわたしにも強い印象を与えたものである。すなわち、その玩具で遊ぶときの音がよいのだ。こつん、ことり、ころん…… 実に柔らかい優しい音がするのである。

 プラスチックやブリキのおもちゃも悪いとは言わないが、音と手触りで選ぶならだんぜん木のおもちゃであろうと思う。お菓子などのおまけに着いていた日本のブリキのおもちゃにも郷愁を感じる人は大勢いると思うが、あれは個人の幼児体験に深く結びついているからであって、それで遊んだ個人の歴史、生い立ちがあってこそのことである。木のおもちゃの場合、そう言うものを超えていると思う。もともと命の宿っていたものだからだろうか。玩具という姿になっても、湿気などに反応したりもするのであるから、それでもどこかに命を宿していると言えなくもない。

 わたしは、残念ながらそのような木のおもちゃで遊んだ記憶があまりない。ないことはなかったと思うのだが、記憶に残っているのは、ダイヤブロックであったり、レールセット(鉄モノである)であったり、ミニカーであったり、自分で作ったプラモデルだったりする。シンセチックな幼時であった。命の残り香のするものと言えば野球のグローブぐらいだろうか。もちろん、近所の田圃でつかまえた蛙や原っぱでつかまえたバッタなどもおもちゃと言えばおもちゃだったかも知れない。しかし幸か不幸か、「人類の美しい方の半分」をおもちゃにしたことは「無い」。

 わたしの遊んだおもちゃは極めてシンセチックであったが、通った学校の校舎は木でできていた。二階建てで、屋根はもちろん瓦が葺かれていた。窓は格子状に仕切られていて、シングル盤レコードのジャケット(古っ)ほどの大きさの板ガラスが嵌められていた。もちろんしばしば割れるのであるが、確かその取り替えも生徒がしていた記憶がある。小学生のがきんちょにも取り替えることができたのであるから、ゆるゆるだったのだろうと今になって思う。放課後の掃除の際には出鱈目な絞り方をした雑巾でぺろりと撫でて可愛がっていた。

 机と椅子も木でできていた。重かった。終業すると、椅子を机の上に逆さにして乗せて、教室の後ろに下げて教室の前の方から順番に箒をかけて、掃き終わったところに机を戻して行った。上履きを使っていなかったので清掃の際には、毎日掌一杯分ぐらいの土埃が収穫された。教室にも日向の匂いがしていた。時々油引きがあり、土埃も何するものかは、お構いなしに油を引いていた。油を引いた直後の床は、しっとりと湿って油の匂いがしていたが、床面が埃のせいでざらざらであった。何のためにするのかわからなかった。

 そんな校舎も、わたしが在学している6年間ですべて鉄筋校舎に変わった。新しい校舎は、気分の良いものであったし当時はそれが何と言ってもステータスであった。教室にも上履きを履いて出入りするようになり、教室から日向の匂いがすることはなくなった。校庭の隅に1棟だけ独立していたちんまりとした8角形の平屋の図書室も鉄筋校舎の一角に移動し、「ただの部屋」になった。

 今思えば、バラックとは言えあんなにふんだんに木造建築物があったのは、贅沢なことだったかも知れない。今、木造で家を新築したらどんなことになるか。家の外壁だけダミーのバラック風にしたらどんなそろばんを弾かれるのだろう? 少し気になる。縁はなさそうだが…… orz

 わたしの「学校」の原風景はこのようなバラックの木造建築であった。今そこら中で見ることのできる鉄筋の校舎からは、どうしても殺風景な印象を持ってしまう。もちろん、そんな殺風景な学校でも良い友達に恵まれればそれはその人にとってかけがえのない想い出になるのであるから、テッコンキンクリートの校舎が必ずしも良くないと言うのではないが…… 虐めの横行などを始めとする教育現場の諸問題に、無機的な建材に溢れた環境というものが演じている役割も、いくらかありそうな気がしないでもない。

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2009年6月 6日 (土)

【Nur wer die Sehnsucht kennt】

Nur wer die Sehnsucht kennt (ヌーァ ヴェァ ディー ゼーンズフト ケント)(文):ただ憧れを知るもののみが …… Goethe による有名な詩。西東詩集に収められており、チャイコフスキー、シューマン、シューベルトなど多くの作曲家がこの詩に作曲をしている。

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 大学生の頃、この曲をロシア語で歌ったことがある。もちろん男声合唱で、編曲者は知る人ぞ知る福永陽一郎氏であった。当時、ニコライ・ギャウロフが来日したことがあり、日本でもギャウロフの人気が高かったが、そのギャウロフのロシア歌曲集の「LPレコード(CDではない)」にこの曲が収録されている。ギャウロフももちろんロシア語で歌っている。 

 日本語では「ただ憧れを知るもののみが」という訳題で知られているこの詩は、ゲーテの手によるものであるので当然ドイツ語で書かれた。しかし、チャイコフスキーはこの詩のロシア語の訳詩に付曲した。これは、第二連のSeh’ ich an’s Firmament, nach jener Seite; Ach, der mich liebt und kennt, ist in der Weite. という一節が、旋律線と一致しないことからも明らかである。

 いくら、学生時代に歌ったからと言って、原詩がGoetheならドイツ語に付曲して欲しかったなあと思うのだが、きっとチャイコフスキーもその母国語を愛した人だったのだろう。母国語に訳されたGoetheの詩におそらく心を動かされて音楽を付けたのだろう。わたしは、ロシア語についてはさっぱりわからないので何も最もらしいことは言えないのだが、きっと佳い訳詞だったのだと思う。

 そう言えば、父の蔵書の中にヴェルレエヌやランボオの詩集があったのだが、それは堀口大学による訳詞であった。わたしはフランス語の原詩など全く知らないのだが、堀口大学の訳詞がなかなか美しく思われて、一時期よく本棚からこの古い詩集を取り出して読んでいたことがある。

 今、おそらくこの題名(「Nur wer die Sehnsucht kennt」または「憧れを知るもののみが」)で検索してヒットするのは、大抵チャイコフスキーによるものだろうと思う。冒頭の短七度の跳躍は一度聴いたら忘れられないインパクトの強いものである。ロシア語のアルファベットは特殊だが、”Net, tol’ko tot kto znal”で検索すれば、この曲に関するロシア語のサイト、あるいはロシア語の原詩を扱ったサイトが見つかるはずである。

 それほどまでに有名なこのチャイコフスキーの「ただ憧れを知るもののみが」であるが、演奏されるのはドイツ語が多いらしい。つまりチャイコフスキーのメロディにドイツ語の詩を乗せて歌うのだが、これが上述の旋律線と歌詞との不一致のせいで、興醒めになるのだ。確かに、Goetheの原詩で歌いたいよ~と言う気持ちは痛いほどにわかるのだが、in der Weite ”in” にいちばん重いところが来るのはわたし個人的にNGである。これを平気で歌える歌手は、きっとドイツ語を知らない歌手だと思う。ドイツ語を知っていれば、この「妙な感じ」をどう感じるかと言ったら「妙に感じる」に決まっている。まさに、「ただドイツ語を知るもののみが」と言うことだ。

 こんなことを書くけれど、Goetheの原詩をとやかく言うつもりはない。「チャイコフスキーのメロディを歌うのなら、ロシア語だろう!」と言いたいのである。そもそも日本語の「憧れ」に対応するドイツ語はここでは「Sehnsucht」である。ゼーンズフト、 SehnSehnenすなわち「憧れる」、「切望する」。Suchtはここでは「強い求め」の意味である。このSehnsuchtという言葉をドイツ語で初めて口にしたとき、わたしは「なんと美しい言葉だろう」と思った。理由はない。ロシア語の何がSehnsuchtに対応するのかさえ、今ではわからないのが切ない。学生の頃は楽譜に対応する訳語(露日)を書いてあったのに……。歌うなら本当ならドイツ語で歌いたい。

 憧れとは希望であり、未来である。言葉は忘れても、その実質は忘れないでいたいものだと思う。

ロシア語の演奏

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2009年2月27日 (金)

【Eiszapfen】

Eiszapfen(アイスツァプフェン)(男):氷柱(つらら) …… 通常、寒冷地方の軒などにぶら下がる、寒さの象徴のような存在。これができるためには、降ってきた雪が一度は解け、そして落下するまでに凍らなければならない。実は絶妙なタイミングが必要。「解ける」と「凍る」という相反するふたつの現象がほぼ同時に起こるというのは、もしかすると奇跡なのかも知れない。

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暖冬と言われた今年の冬だが、ここに来て冬らしい日が増えている。今日などは、朝方の気温よりも昼間の気温の方が低いと予想されている。どんな日になるのかと思っていたら、やはり朝起きた直後よりも、昼前あたりのほうが寒く感じた。

わたしは、部屋の空気が暖かすぎると頭が働かなくなる質なので、少々寒くても暖房は使用せず、最悪の場合でも、腰に毛布を巻き上半身にはダウンベストを着るというかたちでパソコンに向かっている。ディスプレイをみて翻訳をしながら、ディスプレイに白い息がかかるのを見ている。画面が凍り付かないのを願うばかりだ。ここで寒さに負けて暖房を入れて心地よくなってくると、ハイバックの椅子にもたれて眠り込んでしまうことになる。しかし、今日はさすがに暖房を入れる誘惑が強くなっており、どうしようかと迷いながら先にブログの記事を書いている次第。

仕事部屋のベランダをふと覗いてみると、ベランダの床にシャーベット状の雪がたまっていた(積もっていたとは言い難い)。おそるおそるベランダに出てみた。部屋の中が外と大差ない気温なのでさほど寒いとは思わなかったが、決して寒くないのではなく、部屋の中からしてすでに寒いと言うことである。そのベランダの手すりに氷柱のようなものができているのを発見した。金属製の手すりは可成り冷えているのだろう。それにしても、こちらに越してきて初めてこのような現象を目撃した。稚内生まれのわが妻は、関東の冬を鼻でせせら笑っているが、わたしとて、生まれは関西だが、ドイツの冬を十回以上も体験している。アウトバーンを走りながらツイストして冷や汗をかいたこともあるし、膝まで埋まる程度の積雪なら何度か体験している。居宅が四つ角に面していたため、雪かき(と言うより歩行者の通路確保作業)は結構上達した。しかし、長らく関東のヤワな冬に身体が慣れてしまった今では、今日ぐらいの寒さでもくしゃみと洟水が絶えない。ティッシュペーパーが底をついたので、ドイツ人の習慣を思い出して、Taschentuchで洟をかんだりしている。

Tsurara_01

  Tsurara_02

 

垂直の氷柱らしい氷柱と、そうでないやつと……

さぶ……

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2009年2月23日 (月)

【Zu Fuß gehen】

Zu Fuß gehen(ツー・フース・ゲーエン)(熟語):乗り物を使わずに徒歩で行く …… 言葉に忠実に言うなら、「脚で行く」あるいは、「徒歩で行く」と書いて「かちでゆく」と読むのが良いかも知れない。要は乗り物に乗らないと言うことであって、移動する際に身体が一時宙に浮くかどうかは問題とされていないらしい。

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 先日、車を車検に出した。前回の車検は自分で検査場に持っていって通したのだが、それでまる半日つぶれてしまった。半日つぶれるというのは、「仕事」という視点からは、ほぼ丸一日つぶれるのに等しい。丸一日みっちり働けば、自営業の場合、車検の工賃プラスアルファぐらいの収入になり得ることを考えれば、自分で通したのが得だったのか疑問符がつくなと思った。今回の車検も、始めは自分で持っていくつもりだったのだが、どうもスケジュールが合いにくく、ディーラーに頼むことにしたのだ。

 とは言っても、期限ギリギリまでぐずぐずしていたので、駆け込み的な車検申し込みとなり、期限には間に合ったが代車がないと言うことになった。 まあそれも仕方あるまい、たまには車のない生活をしてみるのも悪くはなかろうと考え、地元の竜ヶ崎のディーラーに安物のスバルに鞭当てて向かった。

 車検の手続はあっという間で終わった。では帰るぞと席を立ったところで、「駅までお送りしましょうか」と客商売なら当然の台詞があったが、顔に「忙しいからできたら自分で帰ってくれないかな~」と書いてあった。わたしは、権利やサービスを貪る趣味はないので、「いえ、散歩がてら歩いて帰ります」と立ち上がった。嫌そうな顔をした人間に送ってもらいたいなどとは露ほども思わぬ。我は行く、さらばスバルよ。

 この日は、この暖冬にあって珍しく冬らしい日だったので、家を出るときに、この冬ほとんど出番のなかったウールのコートを着て来たので、まあ、冬の冷気を楽しむぐらいのつもりで居た。ドイツ暮らし10年以上であるから、当然、散歩と言えば可成り気合いを入れて歩くものと心得ている。ディーラーを出ると、その隣の家のご主人らしき人が、可哀想にこの寒いのに玄関口で煙草を吸っていた。きっと、この家のカミさんは鬼嫁に違いない。いや、この旦那の年格好からすると、鬼娘も居るかも知れない。

「すみません」

「はい?」

「最寄りの駅にはどう行けばよろしいでしょう?」

「え゙っ? 駅ですか?」

 顔に、(遠いですよ)と書いてあった。記憶ではそうでもなかったはずなのだが。

「はい、竜ヶ崎駅までですけど」

2キロはありますよ」

 2キロの道のりが遠いとは全く思わないのだが、まあ、すぐそこでないのは確かだ。ご主人は、愛想良く道を教えてくれた。わたしは礼を言って、2キロのお散歩を開始した。靴は革靴だったので、4km/hで歩くことにした。そうでなければ6km/hで行くところだ。わたしは、この2段階で歩くスピードをコントロールすることができるのだ。人間も50年以上やっていると、これくらいのさじ加減はできるようになるのだ。2キロの道のりなら30分のお散歩である。久しぶりの運動には丁度良いくらいだと思った。

 風の寒さは平気だった。日頃、一日中パソコンに向かって座っている生活であるから、外気を吸いながら体を動かすのは気持ちの良いものだった。1キロ過ぎるあたりまでは…… orz

 なんと、今までいろんなところを歩いてきたけれど、初めて歩きながら股関節に痛みを覚えた。両方の股関節が、なんだか痛怠い感じになってきた。日頃鍛えていないから、太股や臀部の筋肉が落ちて股関節にかかる負荷が増えたのかも知れない。思えば、20代の頃にはわたしと良く似た変わり者の友人と一緒に、当時の居宅からライン河の畔まで片道9キロ往復18キロを革靴で歩いた(ドイツと言えばライン河。ライン見たさに装備を調えるのも忘れ、その辺のスーパーにでも行くようなノリで出かけたのだった)こともあるわたしが、1キロ歩いたぐらいで股関節痛とは落ちぶれたものだ。しかし、4km/hのペースは守り通し、およそ30分で竜ヶ崎駅に着いた。そして、佐貫から常磐線でひと駅行って牛久駅で降りた。牛久市には「かっぱバス」という格安のコミュニティバスがある。たしか100円均一のダイソー的な交通手段なのだが、便数が少ないのが玉に瑕である。次の便までは2時間ほどある。つまり、「今出たところ」だった。別のルートも考えられるが、そこまでするのも情けないので、さらに40分ほどかかるはずの我が家まで、もう一度歩くことにした。今度も4km/hで行こう。

 やたらテナント募集の看板を掲げた店の多いうら寂しい通りをてれてれと歩いていると、筋肉が目を覚ましたと言うべきか、歩く感触が変わり、股関節の痛みが軽くなった。まだまだわたしの足腰は捨てたものではないらしい。久しぶりに喝が入って、かつての鍛錬を思い出してくれたようだ。まあ、合唱の演奏会で2時間立ち続けて筋肉痛になるくらいだから、大したことはないのかも知れないが、家に着いた頃には、合計1時間歩いた疲れは感じていたが、股関節痛は消えていた。

 そして、中食(ちゅうじき)の後、仕事に取りかかりしばらくすると電話が鳴った。ディーラーからの車検金額の見積もりの連絡だった。ブレーキ系統の修理と、タイヤの交換(内側のワイヤーが出ていたらしい。知らんかった…orz)とで、およそ10万円ほどかかるらしい。まあ、そういう状態だったら、自分で持っていったら点検係のオッさんにダメを出されてむくれていたところだった。ディーラーに頼んで正解だったとは思うけれど、円高でユーロ建ての取引の実入りが少なくなっている時期に、車検10万円は痛かった。 徒歩歩……

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