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2006年10月 5日 (木)

【Japanische Musik – 3】

Japanische Musik (ヤパーニッシェ ムズィーク) ():日本の音楽 ・・・・・ 続き物も3回目になるとちょっとひつこいと思われますが(^^;)・・・(Einmaligkeitのその2でも良かったんですが)・・・先日の東混特別演奏会で上演された曲が題材です。

先日の東京混声合唱団常陸太田特別演奏会で、柴田南雄さんの「追分節考」が上演された。いわゆるシアターピースというもので、「お噂はかねがね」伺っていたのだが、聴くのはこれが初めてだった。そして、これが最後であるとも言える。

マエストロ田中信昭先生がマイクを持って曲の解説をしてくださったのだが、これは柴田南雄さんが採取された信濃追分節のさまざまな旋律(すなわち、伝えられている地域によって節回しが異なる)をすべて曲中に採用している。団員数名にそれを割り当て、それを指揮者が指示した時に歌い始めるというもの。そのタイミングは、指揮者が、舞台上に設営されたスタンドにその担当が示された文字の書かれた団扇を立てることで示される。ちなみに東混が使用している団扇に書かれた文字は、作曲者の親筆であるそうだ。(証拠写真を同じステージに乗られたCantotantoさんがご自分のブログにアップされています: http://canto.exblog.jp/m2006-10-01/#4407813 

さて、その数種類の追分節が歌われる背後には、女声が西洋和声では不協和音とされる、日本的なものを想起させるような和声を持続させるなど、おそらくいくつかの約束事を支えにして演奏されるのだが、指揮者が団扇を立てるタイミングまでは指定されていないようなので、演奏はその都度違ったものになる。追分節のソロ担当者は、舞台からおりて客席を巡回する。作品の音がホール全体を使って再現されるわけで、座る場所によっても演奏のイメージががらりと変わる。これもまたeinmaligな体験なのであった。

さて、その田中先生の解説の中で概ね次のような内容の言葉があった:

「・・・・・これはまぎれもない日本の音楽、オリジナルな音楽であり、しかも現代の音楽である・・・・・世界のどこに持って行っても、皆喜んで聴いて下さる・・・・・」

クラシック系の音楽愛好者の中には、日本の独自性のある音楽が少ないこと、楽しまれていないこと、などを寂しく感じている人も多いと思う。

私見だが、幕末の開国に伴って西洋音楽も導入されたが、以降、日本の民族的音楽の独自の発展がほぼ止まってしまったのではないかと思う。これは、田中先生の解説にもあり、「追分節考」の冒頭に引用されている、あの官製の日本伝統音楽を否定するような通達(これを女声のメンバーが三々五々入り乱れて朗読するのだ。揶揄っぽい)などにも明らかだが、日本の独自の音楽を「遅れたもの」として卑下すると言うことを国の指導者が率先して行ったからではないのか?と思う。

しかし、西洋音楽の豊かな響きを享受する傍ら、どこかに日本のオリジナルなものが同じレベルで楽しまれていないことを、(上手く言えないが)後ろめたいような、気が引けるような、寂しいような気持ちでいる人は、少なくないのではないだろうか?これは、微妙にして妙な感覚なのだが。

出典をもはや記憶していないが、多分岩城弘之さんの言葉だったか、岩城弘之さんが引用された言葉だったのではないかと思うのだが、「日本人は器用で、勤勉で、優秀であるので、西洋の音楽も立派にマスターするのは驚くほどだが、西洋音楽をやっている限り、世界のナンバー2以上にはなれないのだ」という言葉があったのを思い出す。自分の民族がその祖先から脈々と受け継いできたものを、もっと発展させたいと考える人が出てくるのは自然なことだと思う。人は誰でも独自のものを持ちたいと願うものではないか?

先々回の日記に引用した日本和声の考案とか、この「追分節考」などの日本の伝統音楽に素材を求めた作品群が世に出される背景の、その一部にはこういう心情が隠されているとわたしは思う。

また、自分が相対する人から、その人独自のものを感じたい、体験したい、学びたいという気持ちも多くの人が共有しているのではないかと思う。現代の豊かな響きの音楽を享受するのは、まったく以て問題なく素晴らしいことであるのだが、そこに日本独自のものを紹介していくことで、人類の共有財産である音楽がいっそう豊かになるということも出来るだろう。

海外に長く滞在すると、その国の人から「あなたの国のことを教えて」と請われることは多い。異民族間で交流するとき、自分の民族のこと、すなわちわれわれなら日本のことについてきかれると言うことは、「あなたは誰?」ときかれているようなものだとわたしは思う。現代の日本についてだけではなくて、現代の日本に至らしめたその源流についてもいくらか見識(知識と自分自身の見方など)がないと、とても肩身の狭い思いをすることになる。いや、ぶっちゃけた話、軽蔑される可能性さえある。

ある人が在独のドイツ・シンパなら、ドイツの音楽や文化に関心を持ち、楽しみ、ドイツ語の響きを愛し、ビールを飲み、ライ麦パンを喰らい、ドイツにいてそれらを身近に享受することが出来ることをとても幸せに思う。しかしいつか、「自分は、どこまで行っても客でしかない」と言うことをしみじみ感じる時が来る。異文化への理解が深まり、それを大変好ましく身近に感じるようになればなるほど、いつかはそれをしみじみ思う時が来る。そんなとき、人は自分の血の源流に帰っていくのではないかと思う。

「追分節考」を鑑賞して、考えがあちこちに飛んでいってしまった・・・(^^;)

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コメント

コメント一番乗り~♪かな???

確かに、柴田南雄さんの追分節考などを聴くと、既存の旋律を尊重し、それを素材としながら、日本古来のものとは違った西洋的な接近方で音楽が再構築され、あらたな芸術作品が出来上がっていることを実感します。

まぎれもない現代音楽・・・
でも旋律は伝統的なもの・・・

柴田南雄さんの天才を今更ながら思い知らされます・・・・・

以前在籍していた合唱団の東京公演で、柴田南雄さんの「人間について」(だったかな???)を演奏した際、会場にいらしていた柴田先生が、団内のソリストと握手していらした情景を思い出しました・・・・・

今回の演奏会同様、とても貴重な体験でした・・・・・

え~っと・・・思い出したことが多くて、何を言いたいのか忘れた???

え~、日本の芸術、とっても、いいですよね♪個人的にすきなものは能楽です。

西洋音楽のような発展を遂げてはいませんが、なが~い歴史をもちつつ新作が発表されたりしています・・・

・・・とりあえず、外国人に、日本のものを紹介するときは、お能の一番でも謡おうか、と思っています。仕舞いをつけられればもっといいかな???・・・

それはさておき・・・

追分節考は、技法が西洋的なコラージュっぽかったところが面白いのですが、ああいった素材を純粋に日本的な表現技法で作品化するとどうなるのでしょうか・・・

水墨画、壁画、とか・・・???

投稿: MUSE | 2006年10月 6日 (金) 01時13分

なんだか書いてるうちに考えがあちこちにとんで、支離滅裂な内容になっていていますね。失礼しました。(いつものことですが)

わたしが樅の木さんのように深い見識をもって音楽とむかいあえるようになるにはあと10年くらいは必要かな・・・・と思いました。

ではでは、長々と失礼いたしました。

投稿: MUSE | 2006年10月 6日 (金) 01時23分

MUSEさん♪

この日記、音楽の話をしているようでしていないかも知れません(笑)。アイデンティティの話の方が濃いかも知れません。

追分節考の楽譜を見てみたい~

で、最初のコメントの最後の方、ちょっと良くわからないのですが・・・

投稿: 樅の木 | 2006年10月 6日 (金) 02時56分

そうですね。アイデンティティですか・・・

納得ですね。追分節考の楽譜、私も見たいとおもいました。

最初の話の最後のほうについて、

追分節考、素材は日本のものなんだけど、構成が非常に西洋的、と感じたので、まあ、現代音楽なんだから当たり前といえば当たり前なんですが、民謡の旋律などを素材にして、例えば能楽のお囃子などの組み立て方で演奏すればどういう感じになるのだろう???とちらっと思ったので・・・(^-^)

わたしの頭の中では、追分は、視覚的には、旋律や言葉を切り貼りしたコラージュの絵になっているのです。
水墨画のイメージというのはお能のお囃子のようなイメージで、古い日本的なものと認識されています。壁画は・・・

あ~!イメージを言語化するのは難しいのですがまた違った技法で再構成したものも聴いてみたいな~と思います。

説明になっているような、いないような・・・

言葉足らずですみません~。

投稿: MUSE | 2006年10月 6日 (金) 18時20分

MUSEさん♪

再度説明頂き、どうやら理解できました。ありがとうございます(^^)v
MUSEさん、その音楽書いて下さったら、初演には協力しましょうか(笑)。

イメージ的なことを言えば、あの演奏を聴いているとき、ホールが信濃の国で、ソリストがあちこちから追分節を歌うのが聞こえてくるのは、まるで信濃の国の村々から、その村独自の追分節が聞こえてくるような感じで、女声のつくる持続音は、本当は人間の耳には聞こえない、山の木霊(?)みたいな感覚でいました。妙なイメージかも知れませんが。

投稿: 樅の木 | 2006年10月 6日 (金) 20時30分

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