« 2008年3月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月26日 (月)

【Heimat】 ふるさと

Heimat (ハイマート) ():ふるさと …… Heim (ハイム)という言葉が「家、自宅」という意味があるので、“なるほど”な単語。この言葉はドイツ語であっても、日本語であっても、その他の何語であっても、ある種の切なさを呼び起こす。ただし、東京駅前にあるハイマート はあまり切なくない。

**********

 先の週末、わたしは帰郷した。

 わたしの故郷は兵庫県尼崎市である。子供の頃=高度成長期には工業都市として川崎や四日市と並ぶスモッグの街として有名だった。尼崎のスモッグを修学旅行で見学に来た学校があったと言う記憶がある。それを聞いたとき、その辺に居合わせた人たちは皆「なめとんかボケェ!」、「耳の穴から指突っ込んで、奥歯ガタガタ言わしたろか!」などと憤慨していた…… 

 わたしが今住んでいるのは北関東某県某市。阪神工業地帯のど真ん中の尼崎とは環境があまりにも違う。特に思い知るのは道路の幅の違いである。わが実家のあるあたりはどこでも道幅が狭い。これは、馬や籠で往来していた頃から街並みが変わっていないからだろう。自動車の発明を誰も予見できなかったのだ。

 わたしの育った家は、その馬や籠で往来していた「幹線道路」からさらに一本奥に入った道路に面している。この道路は居住者以外が立ち入ることは希であり、今でも舗装されていない。する必要がないのだ。我が家の前の部分は、かつて我が家の庭に芝生が生い茂っていた頃に飛んだ種子が代を重ねたらしく、幅1メートルあまりの緑の絨毯になっている。特に手入れなどしていないので、伸び放題、踏まれ放題、枯れ放題だが、別に誰も文句は言わない。

 わたしが棲息していた六畳のプレファブの部屋(永大ハウス)は、とっくの昔に道側の壁と、床全部を取っ払ってガレージになった。だから帰郷すると、かつての祖父の部屋で眠る。

 家から歩いて45秒のところに銭湯があった。だから、父は家を建てるとき内風呂を作らなかった。ゲブロはなおさら作らなかった。部屋で勉強、または勉強以外のことをしていると、銭湯帰りの人の足音が12時前まで聞こえていた。声を聞いていると、誰が通っているかわかることもあった。

 この家の前の未舗装道路に面して、十四軒の家が並んでいた。そして、わたしが子供だった頃は、同じ年頃の子供が多く、年齢の垣根を越えてよく遊んだものだった。記憶をたぐると、わたしを含めて十四名の子供の名前が浮かぶ。家の数と同じだが、もちろん一軒につき一人ではない。とにかく、子供の声がいつも聞こえる実は結構賑やかな通りだった。

 それからン十年経って、子供達はみな巣立って行き、子供達がいい大人になった頃、阪神大震災が何軒かの家をなぎ倒した。そして今、この通りで遊ぶ子供はいない。そこを走り回っていた子供で、今もそこに残っているのは一人だけだ。あとはたまにわたしが帰ってくるぐらいだ。その頃の子供も五十路を越えた。ぼっちゃんがオッさんになり、お嬢ちゃんは関西のおばはんになった。そして父と母は年老いて枯れた。

 父も母もまだ元気だが、病も持っている。いくら何でも、もうそろそろ戻らなければならないのだ。でなければ、呼び寄せるかしなければならないのだが、若い頃の無頼(?)がたたっていまだにそれがなし得ないでいる自分を深く恥じる。子を為すこともなく、わが家系はこれで絶える。せめて、両親をきちんと見送り、そして妻よりも長生きをして、わたしは一族のしんがりとして鬼籍に入りたい。人に看取られて死ぬような贅沢をわたしは求めてはいけないなあと思う。

 しかし、関東と関西の二重生活はまだまだ続く…… orz


| | コメント (4) | トラックバック (0)

« 2008年3月 | トップページ | 2008年6月 »