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2008年6月28日 (土)

【Chile Wein】 チリワイン

Chile Wein (チレ・ヴァイン)():チリワイン …… 南米の国、チリのワイン。これをChili Weinと書くと、とんでもない味のワインになるはずだ。ワインと言えばフランスというのが一般的な考え方だろうと思われるが、チリワインはある意味フランスなどのヨーロッパワインを越える存在である。「酒乱の誉れ」… ではなく「出藍の誉れ」という言葉がぴったりと来る。

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わたしはチリワインが好きである。

チリワインの味を覚えたのは、ドイツ滞在中だった。当時わたしは、ワインと言えば、白ワインならドイツ、赤ワインならドイツ以外というかなり簡単な評価基準に従って、財布の中身と相談しながらワインを買っては飲んでいたものだった。

ドイツの白ワインはなかなかのものだと思う。わたしの住んでいたのはドイツ南西部、バーデン・ヴュルッテムベルク州であり、日本で言う地酒のようにそこら中に地ワインがあった。地ビールももちろんあったが、地ワインもなかなかのもので、それは大抵白だった。わたしは数ある白ワインの中でも、フランケンの辛口の白が好きだった。どの辺か、と言えばヴュルツブルクのあたりと言っておこうか。瓶の形が三角形をしている。大昔、資生堂から出されていた男性用化粧品「ヴィンテージ」のボトルの形と良く似ている。あれを良く冷やして、チーズなどと一緒にやるのが好きだった。今でも好きに違いないが、肝心のフランケンワインが手に入らないので、確認ができない。困ったものだ。

白ワインは美味しいのに、何故ドイツ人は赤ワインを「よう作らんのか」と思う。ドイツの赤ワインはどれもこれもさらさらで、色つきの白ワインとしか思えない。そこで、わたしは赤ワインはドイツ以外のものを買うことにしていた。イタリアのキャンティのクラシコなどが非常に良かった。赤ワインは、どっしりとしたフルボディが好みである。肉料理にはこれしかない。

ある時、巨大なスーパーマーケットのワイン売り場でチリワインを見つけた。話の種になるかな? と思って買ってみたら、これがとても美味しかった。

驚いて知人に話したところ、何人目かで「そうだろう!」という御仁に出逢った。

彼はなかなかの物知りで、知っていることはとことん知っているが知らないことはまったく知らないと言う、当たり前の人物であったが、幸いなことにチリワインのことを良く知っていた。彼が言うには、「チリの葡萄の木はヨーロッパの葡萄の木よりも由緒正しい」と言うことだった。ほんまかいな?

物知りの彼と、酒屋の親父などにも確認したところ、わたしなりに真相を理解することができた。

コロンブスという名の男が大西洋を渡ったおかげで、南米にスペインやポルトガルの魔の手が忍び寄った大航海時代、キリスト教の布教もなされ、教会の行事に必要なワインを現地調達しようと言うことで、ヨーロッパから葡萄の苗木が持ち込まれた。スペインからだったようだ。ドイツの修道院とビールの関係を出すまでもなく、宗教と酒との関係には、極めて深いものがあるのだ。

栽培を始めてみると、チリの気候が葡萄の栽培にとても適していたらしく、思いがけない成果が上がり、ワイン造りはチリで急速に広まったと言う。そして、19世紀になってフランスからの苗木が入って来て、今に至る。その間、ヨーロッパでは害虫の被害によってほとんどの葡萄の木が死んだとされている。その後、ヨーロッパでは害虫に強いとされるアメリカ系の葡萄の木を台木に、ヨーロッパ品種を接ぎ木すると言う方法で、再びワイン造りが始まった。

わが物知りの友人曰く、「アメリカが混ざってるんだぜ!」 ヨーロッパ人に良くあるアメリカ嫌いのひとりであった。そうかそうか。ゲーテのファウストの冒頭のあたりで、『ドイツ人ならフランスはご免だが、美味い酒なら有り難く頂くぜ(高橋義孝訳)」という台詞があるが、やはり酒の場合、アメリカよりもフランスの方が有り難いらしい。

チリにフランス産の葡萄の木が持ち込まれたのはこの害虫被害の発生する前であり、アンデス山脈によって防御されているせいか、チリはいまだにこの害虫被害に遭っていない。チリにはヨーロッパではなくなってしまった品種の葡萄の木が、今でも残っているのだそうだ。だから、チリワインは「フランスワインよりもフランス」なのだそうだ。

チリワインは、赤ならどんな安物を買っても、どっしりとしたフルボディであって、わたしの好みにぴったり合致し、今まで期待を裏切られたことがない。ドイツでも、チリワインを知人によくプレゼントして、「美味しいやんか!」と喜ばれることが多かった。

今回、680円のチリワインを買って飲んだら、わが地元の○○シャトーのワインより、10倍ぐらい美味しかったので、ブログに書こうと検索してみたら、チリワインに詳しいサイトがあった。例の害虫の名は、フィロキセラというのだそうだ。葡萄の木の根を食う悪い奴だ。詳しいことはこちらでどうぞ。

ルネッサ~~ンス!


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2008年6月24日 (火)

【Wettbewerb】 競争

Wettbewerb (ヴェットベヴェアプ)():競争、競合 …… これに形容詞をつけると、freier Wettbewerb で「(特に経済上の)自由競争」、harter Wettbewerb で「厳しい競争」などの意味合いになる。フリーランスも考えてみればWettbewerbの真っ只中にいるのだが、競争相手が具体的に目に見えないことが多いので、何となくのんびりしてしまうことも多い。競争下にある(im Wettbewerb stehen)ことにすら気付かない人もいるだろうか? そうであれば、負けたことにも気付かないので、結局は彼が勝者なのかも知れない。

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競争というのは悪いものではないと思う。

先日、秋葉原で起こった通り魔殺人事件では、メディアがその犯人の世代について語るときに、『親や教師などが競争を忌み嫌い、言い争いすら許されなかった』という誰かの発言がどこかで引用されていた。新聞だったと思うが、もしかすると週刊誌か、ネット配信されたニュースだったかも知れない。

喧嘩をしないためには、極論を言えば「喧嘩そのものを知らない」で過ごすか、そうでなければ「喧嘩の愚かしさを知る」ことだろうかと思う。人間にできるのは後者の方だろう。しかし、そのためには多少の喧嘩は許容されなければならないと言うことになって、問題は周囲がそれをどこまで許すかと言うさじ加減を知っていることにかかるだろう。そうすると、その周囲もそれを「実践」もしくは「実戦」で学んだということに他ならない。矛盾に満ちたテーマだ。おそらく「喧嘩をしてはいけない」という命題に間違いが含まれている。

しかし、喧嘩に限らず「愚かなことをしない」ためには「愚かなことをして、それがどれほど愚かであるかを悟る」のが最も確実な道なんだろうなと思う。子供のする競争などは、まだまだ可愛いものであるように思う。子供の頃から「程よく」競争していれば、彼らも経験が足りないだけで後はほぼ全き人間であるのだから、自然とやって良いことと悪いことの区別もつくようになるだろうとわたしは思う。ただ、わたしには子供がないので、子供が周囲からどういう影響を受けているのかがリアルにはわからないので、もどかしい気がする。

競争は、両刃の剣のようなもので、悪しき結果を生むこともあるが佳いものを産んでくれることもある。人間の社会の発展は、競争の結果であると言っても良いと思う。

先日帰阪した折に、大阪駅前の変わり様をじっくり体験した。

いつもなら、伊丹空港からタクシーまたはバス、あるいは新大阪駅からタクシー、またはマイカーで名神尼崎インターから直行と言う手段で帰宅するので、大阪駅を通ることがなかった。先回は、高速バスを使ったので、国鉄、もといJR大阪駅の近辺をくまなく歩いた。

学生時代にはグリークラブの一員として音楽にのめり込んでいて、大阪駅前第2ビルの2階にある「ササヤ書店」という知る人ぞ知る楽譜屋さんに入り浸っていた。そのため、そのビルの喫茶店などで過ごすことも多かった。第2ビルは今でもほとんど変わっていない気がする。懐かしい。そのビル内にある床屋で散髪をして貰った。すると、これが大変上手だった。大阪は、何をするにも激戦地である。だから、これくらい当たり前なのかも知れないと思うが、シャンプーの際の指使いが巧みなこととか、顔剃りの丁寧なことなど、現在の地元北関東某県某市の行きつけの床屋のやっつけ仕事とは雲泥の差があった。料金も北関東某県某市の行きつけの店より500円高いだけだが、サービスを受けた感じでは倍ぐらいのサービスは受けたと思う。

顔剃りが終わった後、「顔を洗ってください」と言われて、腰を浮かして顔を洗った。これは、客が顔剃りがきちんとされているかどうかを確認するための儀式なのだ。北関東某県某市でこのように言ってもらったことは一度もない。そして、終わった後自分で触ってみると、まだまだじゃりじゃりしている。はっきり言うてよろしいか? へたくそ! 大阪駅前第2ビルの床屋さんで顔を洗って確認したところ、つるつるであった。頭ではなく顔がである(念のため)。

――プロやなぁ――

気分よく店を出て、地下道を歩いて大阪駅に戻り、駅ビルの「頑固寿司」に入った。

ここも、気合いが入っていた。

カウンターの中にいるのは女性がほとんどだった。しかし、皆さんよく声が出る。お客さんが来店したときにかける声が決まっていて、全員で声を揃えて迎える。そして、頃合いを見計らって板長的な男の店員が本日のお勧めメニューを朗々と歌うように発声すると、その他の店員が全員で声を揃えて復唱する。客の回転が早いせいもあるが、テンポがある。北関東某県某市の回転寿司のテンポをモデラートとするなら大阪のそれはアレグロぐらいだと言える。でも、地元民にはこれくらいが当然なのだろう。箱根の山の東に身柄を移して可成りの年月が経った。大阪のテンポをすっかり忘れている。そう言えば、大阪環状線の車内で聞いた大阪弁会話の現物。わたしの大阪弁はもう、ピュアでなくなっているのを感じた。

競争の中に身を置いて、気合いを入れて仕事している人の気に触れて、わたしは少し元気になった。

大阪 ―― やるやんけ

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2008年6月19日 (木)

【Qoui d' Aole】

Qoui d' Aole (クイ・ダ・オーレ)():食い倒れ …… 大阪の道頓堀にある大衆食堂。店頭にある人形「くいだおれ太郎」で知られる。また、太郎には弟の次郎もいると言うことだが見たことはない。最近、店がつぶれるので職を失うことが決まったが、引く手あまたであちこちに引っ張って行かれているので、食いっぱぐれ太郎になる心配はなさそうである。

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 京の着倒れ、大阪の食い倒れと良く言われる。京都の人は着るもので身代を潰し、大阪の人は食べて身代を潰すと言う意味だと言われているが、異説もある。

 作家の藤本義一さんが大昔、わたしが小学生だったか中学生だったか、それくらいの太古の昔に、某週刊誌のグラビアページ脇のコラムで、この食い倒れについて書いておられたのを覚えている。大事なことはほとんど忘れたが、めっちゃ大事なことは覚えているのだ。

 藤本義一さんによると、大阪の食い倒れとはもともと「杭倒れ」なのだという。どぶに流された食べ物のカスが川に立っている杭に引っかかって、その重みで杭が倒れたことから「杭倒れ」と言われ、それが「食い倒れ」に変わったのだという。でなければ、ひらがなで書くときは「くひだおれ」になるはずで(なにしろ昔の話であるから、旧仮名遣いである)、「くいだおれ」と書かれているのは元々が「杭倒れ」だったからだと書かれていた。それを読んだわたしは深く納得したのだった。

 江戸時代のことだと書かれていた記憶がある。江戸時代というのはしかし、現代と比べて人はもっとものを大切にしていた、すなわち「始末」が良かったはずなので、杭が倒れるほど食べ物を川に流したりはしないだろうと、大人になってから思ったのだが、もしかしたら大阪の川の杭にゴミや藻などが引っかかって杭が倒れたのを、『あれはわたいらが食べ残した食い物んが引っかかったからでんねん』とか見栄を張って、もしくはおちゃらけて言ったのが始まりかも知れない。この説だと、「京の着倒れ」とのセット感はなくなるが、そもそも大阪と京都はそれほど仲が良いわけでもないので、「いちいちセットにしてくれんでもええわ」、と誰もが思うであろう。杭が倒れる理由はともかく、藤本義一さんによると、食い倒れは昔から食『い』倒れと表記されていたので、これは「食ひ」ではなく「杭」であると言うのは、なるほどと思う。しかし、食い倒れの語源がどちらであれ、太郎が職場を失うことには変わりがない。食う方が倒れるのではなく、食わせる方が倒れてしまった。仕事を失うと言うのは辛いことである。

 店がつぶれるというのは、何も道頓堀の食い倒れに限ったことではない。

 銀座だったか、旭屋書店が店じまいすると言うニュースが数ヶ月前に聞かれた。道頓堀の食い倒れもそうだが、あんなに商売にうってつけのロケーションでも破綻するのかと思うと、気が遠くなる。こんなご時世に良くもまあフリーランスの船を漕ぎ出したものだ。まあ、小舟ではあるが、外海に出ないので何とかなっているのだろうか。

 書店というのは、特に厳しい業界だと思う。なにしろ、最近では書籍もデジタルで購入できるし、アマ●ンのようなサービスもあるので、書店に行って本を買うと言う行為自体が、人間の日常生活から消えてなくなりそうな勢いだ。今、書店に群がっている人たちは、よほどの本好きか、立ち読み主義者か、あるいは暇な人たちなのかも知れない。

 我が家の近くにも、中規模の書店がある。家から散歩の距離なので、ちょくちょくぶらりと立ち寄っては背表紙を眺めたり、月刊誌の目次を検分したり、気が向いたら本を買ったりしていたのだが、その店も今月末で閉店するという。残念だ。こんなことになるのだったら、もう少しここで本を買っていれば良かった。

 わが住む街は茨城のチバラギと言われる地帯の小都市だが、駅へと続く幹線道路に面した立地でも、閉店している店が目につく。元ちゃんこ屋、元肉屋、元何かの事務所など。駐車場もあって素人目には良い立地だと思われるのに、いつまでたっても次のテナントが入らないで空いたままだ。田舎で細々と商売でも、なんて夢物語な世の中になったのだろうか。

 くいだおれ太郎の再就職先が気にかかる。

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2008年6月10日 (火)

【St. Etienne】 サン・エティエンヌ

St. Etienne (サン・エティエンヌ)(地名):サン・エティエンヌ …… フランスの地名。最近では、サン・エティエンヌと言えばサッカーの松井大輔くんを連想する人が多いようだが、わたしや、もう少し上の世代だと別のことを思い出す。これは、札幌という地名を聞いて、雪祭りやビールを思い出すのと、オリンピックを思い出すのとの違いとほぼ同じである。

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ドイツに住んでいた頃、1230日というとんでもない日から、友人と合計四人で南フランスに旅したことがあった。車で行った。わたしはフランス語と言ったらボンジュールとジュテームしか知らない(それだけ知っていたら向こうでは生きていけるぞと言われた)。そこで、わたしはバーゼルまでステアリング・ホイールというかハンドルを握り、以降はフランス語のできる友人にハンドルを譲った。彼は、ボンジュール、ジュテームの他にボンナペティトとかシルブプレとかコマンタレブとかも知っていたので、大船に乗った気持ちで、わたしは助手席に座っていた。

わたし達の旅は南フランスの小さな村に住んでいる共通の友人を訪れる旅だった。車はスイスからじきにフランス国内に入り、グルノーブルとリヨンの間あたりをぶっ飛ばしていた。

「サン・エティエンヌってこの辺だったっけ?」

旅の道連れのひとりの声がリヤシートから聞こえてきた。

「リヨンのもそっと向こう」

と、フランス語に堪能な運転手が、サン・エティエンヌの方角(多分)を指さしてドイツ語で言った。

「サン・エティエンヌに何か?」

もうひとりの道連れが言った。

「行ったことがあるから」

と、もっともな答えが聞こえてきた。


わたしは古い歌を思い出していた。メリー・ホプキンの歌っていた歌だ。サン・エティエンヌの草原という邦題で、たしか日本語の歌詞のものもあったはずだと思う…… 子供の頃、どこかでレコードがかかっているのを聞いて、良い歌だなあと思っていた。近くにいた大人に聞くと題名と歌手の名前を教えてくれたが、題名の方はじきに忘れてしまい、メリー・ホプキンという名前だけが記憶の隅っこに残っていた。

この歌を再び耳にしたのは、生まれてから四半世紀以上経ってからだった。知人のひとりに、わたしと同じく「トワ・エ・モワ」が好きだという女性がいて、彼女とカセットテープ(CDなどはなかった時代である)を貸し借りしたり、アンソロジーを編集したりしていたのを思い出す。そんな時に行き来していた曲の中に、デュオではなくソロになってからの白鳥英美子が歌っていた「Fields of St. Etienne」が入っていたのだった。永年会っていなかった人とばったり会ったような気がした。

これは子供の頃にいちど聴き惚れて、でも名前忘れたし、他の曲に浮気もしたので別れて何年にもなる、とか言うわたしのウンチクを彼女はげらげら笑いながら聞いてくれた。げらげら笑うような話ではないのだが、多分わたしがげらげら笑われるような話し方をしたのだろうと思う。悪いのはわたしだ。冗談ひとつ言えない堅物のわたしも、久しぶりの古い歌との邂逅にテンションが上がっていたらしかった。彼女に、げらげら笑って楽しかったらしいひとときの見返りに歌詞カードをコピーさせた。それで、これがどんな歌なのかも知った。


南フランスへ向かう車中で、この歌のことを久しぶりに思い出した。

「メリー・ポピンズの歌があったよねえ……」

わたしは、愁いを含んだ渋い低音のドイツ語で語った。

「メリー・ポピンズ?」

「……?」

「……?」

「それは、ホプキンの間違いでしょ! きゃーはっはっはっはあ!」

車内は愁いではなく笑いに満ちた。窓の左側には、白凱々のアルプスの美しい山並みが、冬の冴えた日差しを受けて、青空に映えながら笑っていた。「アホかお前~♪」


今日、YouTubeでメリーさんが歌うこの曲のビデオを1本だけ見つけた。

Fiels of St.Etienne

懐かしかった。歌詞を以下に示す。覚えていらっしゃる人も多いだろう。

そう言えば、別の知人がフランスの歌手フランソワーズ・アルディのファンで、わたしも彼の所蔵のレコードを聴かせてもらったことがある。その中にあった「Let my Name Be Sorrow(わたしを哀しみと呼んで)」というこれまた哀愁のある歌があったのだが、それもポピぴょんの歌だったと言うことも後になって知った。レコードのジャケットなどを見ると、時代を感じる。しかし、歌や詩の内容は現代にも十分響くものがある。大ヒットした悲しき天使は確か Those were the Days だったかな?

Fields of St. Etienne

Through the fields of St Etienne

Amidst the corn I wonder

In my hand an ear of corn

The morning dew has kissed

Here beneath the skies

I lay with my lover

While the summer winds gave it clouds of war

Au revoir my love

Though the reasons pass me

Why we can't remain in the fields of St. Etienne

Weaving proudly, singing loudly

Being young and foolish

He was going never knowing

He would not return

Singing songs of war

Filled with God and country

Marching down the road with the boys that day

Au revoir my love*

Though the reasons pass me

Why we can't remain in the fields of St. Etienne

(Repeat *)

La La La La ............

(Au revoir 「オ・ルボワ」 はドイツ語の Auf Wiedersehen 「さようなら、またね」 にあたる。「アデュー」でなくて「オ・ルボワ」なのがいい)

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