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2009年6月 6日 (土)

【Nur wer die Sehnsucht kennt】 ただ憧れを知るもののみが

Nur wer die Sehnsucht kennt (ヌーァ ヴェァ ディー ゼーンズフト ケント)(文):ただ憧れを知るもののみが …… Goethe による有名な詩。西東詩集に収められており、チャイコフスキー、シューマン、シューベルトなど多くの作曲家がこの詩に作曲をしている。

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 大学生の頃、この曲をロシア語で歌ったことがある。もちろん男声合唱で、編曲者は知る人ぞ知る福永陽一郎氏であった。当時、ニコライ・ギャウロフが来日したことがあり、日本でもギャウロフの人気が高かったが、そのギャウロフのロシア歌曲集の「LPレコード(CDではない)」にこの曲が収録されている。ギャウロフももちろんロシア語で歌っている。 

 日本語では「ただ憧れを知るもののみが」という訳題で知られているこの詩は、ゲーテの手によるものであるので、原詩は当然ドイツ語で書かれた。しかし、チャイコフスキーはこの詩のロシア語の訳詩に付曲した。これは、第二連のSeh’ ich an’s Firmament, nach jener Seite; Ach, der mich liebt und kennt, ist in der Weite. という一節が、旋律線と一致しないことからも明らかである。

 いくら、学生時代に歌ったからと言って、原詩がGoetheならドイツ語に付曲して欲しかったなあと思うのだが、きっとチャイコフスキーもその母国語を愛した人だったのだろう。母国語に訳されたGoetheの詩におそらく心を動かされて音楽を付けたのだろう。わたしは、ロシア語についてはさっぱりわからないので何ももっともらしいことは言えないのだが、きっと佳い訳詞だったのだと思う。

 そう言えば、父の蔵書の中にヴェルレエヌやランボオの詩集があったのだが、それは堀口大学による訳詞であった。わたしはフランス語の原詩など全く知らないのだが、堀口大学の訳詞がなかなか美しく思われて、一時期よく本棚からこの古い詩集を取り出して読んでいたことがある。

 今、おそらくこの題名(「Nur wer die Sehnsucht kennt」または「憧れを知るもののみが」)で動画検索してヒットするのは、大抵チャイコフスキーによるものだろうと思う。冒頭の短七度の跳躍は一度聴いたら忘れられないインパクトの強いものである。ロシア語のアルファベットは特殊だが、”Net, tol’ko tot kto znal”で検索すれば、この曲に関するロシア語のサイト、あるいはロシア語の原詩を扱ったサイトが見つかるはずである。

 それほどまでに有名なこのチャイコフスキーの「ただ憧れを知るもののみが」であるが、演奏されるのはドイツ語が多いらしい。つまりチャイコフスキーのメロディにドイツ語の詩を乗せて歌うのだが、これが上述の旋律線と歌詞との不一致のせいで、興醒めになるのだ。確かに、Goetheの原詩で歌いたいよ~と言う気持ちは痛いほどにわかるのだが、in der Weite ”in” にいちばん重いところが来るのはわたし個人的にNGである。これを平気で歌える歌手は、きっとドイツ語を知らない歌手だと思う。ドイツ語を知っていれば、この「妙な感じ」をどう感じるかと言ったら「妙に感じる」に決まっている。まさに、「ただドイツ語を知るもののみが」と言うことだ。

 こんなことを書くけれど、Goetheの原詩をとやかく言うつもりはない。「チャイコフスキーのメロディを歌うのなら、ロシア語だろう!」と言いたいのである。そもそも日本語の「憧れ」に対応するドイツ語はここでは「Sehnsucht」である。ゼーンズフト、 SehnSehnenすなわち「憧れる」、「切望する」。Suchtはここでは「強い求め」の意味である。このSehnsuchtという言葉をドイツ語で初めて口にしたとき、わたしは「なんと美しい言葉だろう」と思った。理由はない。ロシア語の何がSehnsuchtに対応するのかさえ、今ではわからないのが切ない。学生の頃は楽譜に対応する訳語(露日)を書いてあったのに……。歌うなら本当ならドイツ語で歌いたい。

 憧れとは希望であり、未来である。言葉は忘れても、その実質は忘れないでいたいものだと思う。

ロシア語の演奏

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