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2009年7月 4日 (土)

【Holzbau】 木造建築

Holzbau(ホルツバウ)(男):木造建築 …… 材木でできた建築物のこと。日本の伝統ある神社仏閣などに代表される建物だけが木造建築ではない。広義には材木でできていれば何でも木造建築である。この場合、窓ガラスやドアのノブや錠前などは材木でなくても良いのであるから、人間も随分と融通の効く生物であることがわかる。

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 わたしがぴかぴかの1年生だった頃、わが母校にはまだバラックの校舎が建っていた。時代はまさに高度成長期。東京オリンピックの年にわたしは小学生になったのであった。街には近代的な鉄筋コンクリートの建物が建ち並び始めていたが、同時に古い建物も沢山残っていた。

 コドモの数も多かった。ひとクラスは45名程度で、小学校ではそれが6クラスあったのだから、1学年でおよそ270名前後居たはずで、それが6学年だから単純計算で1620名の小学生が学校に居たことになる。

 校舎は3棟あり、それぞれ北校舎、中校舎、南校舎と呼ばれ、南校舎が運動場に面していた。そしてそれらは皆バラックの校舎だった。さらに、南校舎の脇に独立した1棟で図書室があった。確か8角形の平屋で、わたしはこの図書室が好きだった。そして、運動場の中ほどには用務員室があり、用務員さんが通いだったのか住み込みだったのか把握していなかったが、随分殺風景な用務員室であったので通いだったのではないだろうか。そう言えば、男の先生には宿直が当番で回ってきていたのだから、そこを考えても用務員さんは通いだったのだろう。

 今でも昔ながらのたたずまいの校舎を持つ学校が少しだが残っているらしい。現代の鉄筋鉄骨コンクリート建築の校舎と比べて、何か暖かみのあるホッとするような印象を持つのは、何も実際にバラックの校舎で学んだ経験や怠けた経験を積んだ人ばかりではあるまい。

 材木、木というものは良いものである。ドイツなどでは今でも木のおもちゃが愛されている。

 知人の娘さんが木の立方体のパズルをして遊んでいた光景を思い出す。ドイツでこれが何と呼ばれていたか記憶にないのだが、立方体の六面それぞれに絵が印刷されているか、あるいは絵が貼り付けられているものだ。大抵はドイツの童話から題材を取ったものが多かったと思う。そんな立方体が12個ぐらいあって、それを並べて絵を完成させる。つまり6種類の絵のパズルが楽しめるものである。パズル自体としては他愛もないもので、それで遊べるのは5歳ぐらいまでだろうか?しかし、これが子供の情操には随分良いだろうなと、自分の子供もこういうもので遊ばせたら良いなと、当時独身で理論的にはどんな女性でもよりどりみどりと言う恵まれた状況にあったわたしにも強い印象を与えたものである。すなわち、その玩具で遊ぶときの音がよいのだ。こつん、ことり、ころん…… 実に柔らかい優しい音がするのである。

 プラスチックやブリキのおもちゃも悪いとは言わないが、音と手触りで選ぶならだんぜん木のおもちゃであろうと思う。お菓子などのおまけに着いていた日本のブリキのおもちゃにも郷愁を感じる人は大勢いると思うが、あれは個人の幼児体験に深く結びついているからであって、それで遊んだ個人の歴史、生い立ちがあってこそのことである。木のおもちゃの場合、そう言うものを超えていると思う。もともと命の宿っていたものだからだろうか。玩具という姿になっても、湿気などに反応したりもするのであるから、それでもどこかに命を宿していると言えなくもない。

 わたしは、残念ながらそのような木のおもちゃで遊んだ記憶があまりない。ないことはなかったと思うのだが、記憶に残っているのは、ダイヤブロックであったり、レールセット(鉄モノである)であったり、ミニカーであったり、自分で作ったプラモデルだったりする。シンセチックな幼時であった。命の残り香のするものと言えば野球のグローブぐらいだろうか。もちろん、近所の田圃でつかまえた蛙や原っぱでつかまえたバッタなどもおもちゃと言えばおもちゃだったかも知れない。しかし幸か不幸か、「人類の美しい方の半分」をおもちゃにしたことは「無い」。

 わたしの遊んだおもちゃは極めてシンセチックであったが、通った学校の校舎は木でできていた。二階建てで、屋根はもちろん瓦が葺かれていた。窓は格子状に仕切られていて、シングル盤レコードのジャケット(古っ)ほどの大きさの板ガラスが嵌められていた。もちろんしばしば割れるのであるが、確かその取り替えも生徒がしていた記憶がある。小学生のがきんちょにも取り替えることができたのであるから、ゆるゆるだったのだろうと今になって思う。放課後の掃除の際には出鱈目な絞り方をした雑巾でぺろりと撫でて可愛がっていた。

 机と椅子も木でできていた。重かった。終業すると、椅子を机の上に逆さにして乗せて、教室の後ろに下げて教室の前の方から順番に箒をかけて、掃き終わったところに机を戻して行った。上履きを使っていなかったので清掃の際には、毎日掌一杯分ぐらいの土埃が収穫された。教室にも日向の匂いがしていた。時々油引きがあり、土埃も何するものかは、お構いなしに油を引いていた。油を引いた直後の床は、しっとりと湿って油の匂いがしていたが、床面が埃のせいでざらざらであった。何のためにするのかわからなかった。

 そんな校舎も、わたしが在学している6年間ですべて鉄筋校舎に変わった。新しい校舎は、気分の良いものであったし当時はそれが何と言ってもステータスであった。教室にも上履きを履いて出入りするようになり、教室から日向の匂いがすることはなくなった。校庭の隅に1棟だけ独立していたちんまりとした8角形の平屋の図書室も鉄筋校舎の一角に移動し、「ただの部屋」になった。

 今思えば、バラックとは言えあんなにふんだんに木造建築物があったのは、贅沢なことだったかも知れない。今、木造で家を新築したらどんなことになるか。家の外壁だけダミーのバラック風にしたらどんなそろばんを弾かれるのだろう? 少し気になる。縁はなさそうだが…… orz

 わたしの「学校」の原風景はこのようなバラックの木造建築であった。今そこら中で見ることのできる鉄筋の校舎からは、どうしても殺風景な印象を持ってしまう。もちろん、そんな殺風景な学校でも良い友達に恵まれればそれはその人にとってかけがえのない想い出になるのであるから、テッコンキンクリートの校舎が必ずしも良くないと言うのではないが…… 虐めの横行などを始めとする教育現場の諸問題に、無機的な建材に溢れた環境というものが演じている役割も、いくらかありそうな気がしないでもない。

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