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2009年8月17日 (月)

【Widerholung】 繰り返し

Wiederholung(ヴィーダーホールング)(女):繰り返し …… 日本語化した英語ならリプレイと言うところだろうか。人生には繰り返してみたいものもあれば、二度と繰り返したくないものもある。一般に後者の方が多いらしいが、それが勉強と言うものかも知れない。

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 ところで、人生そのものは決してリプレイできない。誰もがそう思っている。

「あの時、ああしていたらどうなっていただろう?」

「あの時、ああしていなかったらどうだっただろう?」

「あの時、あの娘と結婚していたらどうなっていただろう?」

 などなど、決してリプレイできない故に妄想は膨れあがる一方だ。

 ところが、わたしはその決してできないはずのリプレイをしてしまったのである。

 別に不思議系の話ではないのだが……

 わたしが新卒で就職した某社は、衣料品関係の商社だった。商社と言っても機能的に商社であるだけで、巷では商社と言うよりはアパレルメーカーとして通っていた。

 周囲の人は「哲学科を出てなんでアパレルに?」と疑問に思っていたようだ。わたしとしては、哲学科に進んだのは美学専修で音楽美学をやりたいという動機があったので哲学科を選んだのだが、就職については何も考えていなかった。

 むしろ、就職のために進学先を選ぶのは「汚い」とまで考える書生頭であった。わたしが大学進学する前の頃は、「何故猫も杓子も大学へ行くのか?」とか、「大学へ行く意味は?」とか言う問いかけが同年代の間で頻繁になされていたような記憶がある。大学へ行って熱心に勉強するよりも、勉強以外のいろんなことを体験する方が人間の幅が拡がると言う考え方の方が優勢だったと記憶しているし、実際そう言う学生が大勢いた。熱心に勉強する学生はどこか「小物」のように思われていたように記憶している。

 本来なら(今思えば)、大学というのは熱心に勉強するところであり、そこで学んだことを社会に出て役立てるのが尊いのであるが、そう言う考え方はあの頃は可成り手厳しく排斥されていたように思う。日本の大学が駅弁大学化していて、大学とは社会に出るまでのモラトリウムとさえ言われていた。大学に進学する動機も、本音は「良い会社に就職するため」であり、その就職とは(その本人にとっては)大学名という看板でなんとかなる程度のもの、と言うケースが多かったのだろうか。だから、社会に「大学進学の意義」について疑問を呈する論調が幅をきかせていたのだろう。

 最近の大学がどうなのかわたしは知らない。しかし、「全入時代」とも言われる現代である。大卒の肩書きがあっても潰しは効かないだろう。また、会社に身を寄せると言うこともそれほど大きな安心にはならないご時世である。まあ、大学で何を学び何を経験するのかについて考えると、奥が深すぎてどうにもならないので、閑話休題。

 わたしは、新卒でアパレルの会社に入った。そして、しばらくは営業で頑張っていたし、そこそこの成績もあったのだが、体をこわして退職した。それから運命の悪戯によって、他人に言えないこともいろいろとこなし(?)、今日こうしてドイツ語の翻訳を生業にしているのである。この人生をリプレイすることはできない。もしも体をこわしていなかったら? それは誰も知らない、知ることはできない。それが普通だし、実際にわたしがその「もしも」の人生を実際に確認できたわけではもちろんない。

 

 新聞を開くと、わたしは必ず株式欄などに目を通す。

 為替レートは仕事にも直結するし、株価などもざっとは目を通しておく方がなにかと役に立ったりする。そのとき、昔勤めていたあの会社の株価もチェックするのだ。「元気かな?」という程度の意識なのだが……

 その会社の株式が、ある日見えなくなった。

 監理・整理銘柄になっていたのだ。不渡りを出したのだった。資金繰りについてはまだ不透明なようで、もしかすると倒産と言うことになるかも知れない。その兆候は以前から薄々感じていたので、それ自体は驚きではなかったが、わたしがもしその会社に居続けていたとしたら……? 実際はそう言うことはあり得ないのだけれど、居続けていたらこの年齢であるからそこそこ責任のある位置に居たはずだ。そしてやっと人生半世紀をやりすごしたこの時期に会社がこの状態になっている。

 もっと言えば、内定が出る寸前まで行って結局肘鉄を食らわせた同業界の某社も、同業界の大手の完全子会社になっている、それも今年。どっちの会社に入っていても、そこに居続けていたら(つまり会社内ではある程度の成功を成し遂げてリストラもされずに生き残っていたら)、それでもこの時期には遂にアウトと言うことになっていただろうと思う。そうすれば、この年齢になってしかもこのご時世で失業ということになり、子供もいたかも知れないし、家のローンもまだ残っていたかも知れない。今のわたしの現実の状況よりずっと厳しいorz

 実際は、わたしは会社組織でうまくやっていくとか、得意先相手に営業で華々しい実績を上げる等というような資質は持ち合わせていないので、決してそうはならなかったはずだが、それでもこの想像はずっしりと来るものがある。現在、この百年に一度のなんとやらのお陰で、自営業者は大変なのである。サラリーマンが羨ましくなったこともあるのだ。

 そこでこの事実。

 今この年代で経済的(もしくは経営的)な苦しさを味わうことは、すでにセッティングされていたかのような感覚がある。

 これがこの文章で「リプレイしてしまった」と書いたことの中身なのだが、まあこれをリプレイと呼ぶのは適切でないかも知れない。ただ、この新卒で入った会社の苦境を知るということを通じて感じたことは、久しぶりに少し心に染み込んでくる味があった。「たら」を考えるべきではないといろんな機会で言われるが、それは「リプレイできないから考えても無駄」だからではなく、どこでどう選択していても、「たら」の人生に入っていっても、結局同じ結果を体験することになるように思う。それは、人生での出来事というのは、幸不幸を問わずその人にとって必要なことであり、その人の中身が変わらなければ必ず訪れてくることなのだと言う感覚である。

 平たく言えば、「堅苦しい人」は、人生のどんな場面でどんな選択をしていても、その(おそらくは人から歓迎されないであろう)堅苦しさの故に似たような運命をたぐり寄せるということに似ている。「怠け者」しかり、「優柔不断」しかり、悪い面ばかりではなく「明朗快活」しかり、「頭脳明晰」しかり……

 過去を振り返って「もし~たら」を考えることの不毛さ感じた。

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コメント

運命をたぐり寄せる。奥深いですね~。
どこでどう選択していても結局同じ結果を体験することになる・・・これはやっぱり生まれた時から決まっていた運命っていうものなのでしょうか・・。

あの時こうしてたら・・・って妄想膨らませるの時々していますよ。私も。

でもその時選択が違っていたら今の人生も全然違うものだっただろうって考えてますよね。そして人は妄想したそのほうがいい結果だったのでは?と思っているんですよね~。
今の人生が最善のものだと思えるように日々努力しなければ・・・。

投稿: ろこちゃん | 2009年8月17日 (月) 21時55分

こんばんは~もみさま
私もしょっちゅう、「あの頃ああやっていれば…」「あの頃、あの選択さえしていなかったら…」というのはよく考えます(泣)でも、後悔しているというのを自覚するのが悔しい…というか、覆水盆に返らずで空しいだけなので考えないようにしたり。人生も折り返し地点を過ぎると、「運命」というものを考えるようになりますよね…自分がどうあがいても、しょせん運命には逆らえないんじゃないかとか。運命なんて関係ない、と言いきれるのって若さなのかな~などと思ったりも。

投稿: ありちゅん | 2009年8月17日 (月) 23時17分

ご無沙汰しています。
永遠回帰、ですね。ただ、「たら」を考えるのは楽しい。ほろ苦さなんかも含めて楽しい。

投稿: takuya | 2009年8月18日 (火) 00時50分

ろこちゃんさん♪

コメントありがとうございます。
この妄想は誰でもしますね。
「たら」を考えるのが良くないとか言うのではなく、どんな道を進んでいても、(本質としての)自分がたぐり寄せる運命はおそらく大同小異なのだろうと思い当たったのが、自分としても少々新鮮でした。

投稿: 樅の木 | 2009年8月18日 (火) 16時08分

ありちゅんさん♪

折り返し点、とっくに過ぎました。昔だったらゴールかも(笑)?
いえいえい、平均寿命もぐっと高くなった今、まだまだ先は長いですが、その「まだ長い先」も今までの人生の上に積み上げていくしかないと言うことを考えると、「たら」のひとつも考えてみたくなったり……
別の人生を体験するのには、読書(フィクションなど)とか映画なども良いですね。

投稿: 樅の木 | 2009年8月18日 (火) 16時16分

takuyaさん♪

おお、お久しぶりです♪
「たら」を考えるのは楽しいですね。だから、何度もやってしまう(爆)。

投稿: 樅の木 | 2009年8月18日 (火) 16時18分

哲学出身でいらっしゃったんですか。ますます尊敬~~
私もこのごろ、この記事のようなことを実感していたところです。目に見えるところのあれやこれやが一見大いに違う状況に進んだように見えても、結局同じような人や事柄や展開に囲まれているような。
接続法Ⅱ式って、現地の会話で使うようになったら、すごくよく把握できるようになったものです ^^;

投稿: あむ | 2009年8月18日 (火) 21時58分

あむさん♪

「たら」から接続法Ⅱ式が出てくるのはさすがでいらっさいますね ^^

運命というものは、外的なものに影響されるのではなくて、結局自分が作っていくものなのだろうか、と思いますね。

投稿: 樅の木 | 2009年8月18日 (火) 22時51分

ご無沙汰しております!

「たら」…感慨深く拝読しました。
ちょうど今日、道を歩きながら同じようなことを考えていました。
「あの時〜だったら、今は変わっていたのかしら?」
「いえ…選択を変えていたとしても、きっと同じところへやって来てたはず」
…そんなことを。
実にタイムリーでした!

投稿: えな | 2009年8月25日 (火) 17時16分

えなさん♪

お久しぶりです~♪
「たら」ばっかり考えている人のことを「たらちゃん」と言う…… かどうかはともかく、どこでどう言う選択をしても、きっと同じ試練や喜びを経験するのだと考えれば、後ろを向いている暇はなくなりますね。タマに振り返るのは良いものですが^^

投稿: 樅の木 | 2009年8月25日 (火) 18時35分

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