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2011年4月28日 (木)

【Augenbutter und Nasenpopel】 目○そ鼻く○

Augenbutter und Nasenpopel (アオゲンブッター・ウント・ナーゼンポーペル)():目くそと鼻くそ …… 「目くそ鼻くそを嗤う」という諺は、そのままの形ではドイツにはないようだ。が、意味は通じる。実際、解説付きで使ってみたら大変素晴らしく理解して貰えた。これが、睫毛と鼻毛なら少々違った感じなのだが……

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ゲーテのファウストに以下のようなくだりがある。悲劇第一部の3577行から始まるグレートヒェンの台詞、泉に水汲みに来て、男に騙された知り合いの女性の噂話を友達とさんざんして別れた後の独白だ。

G         (家へ帰りながら) 今まではよその娘《ひと》が何か変なことをすると、随分威勢よく悪口をいったものだけれど。ほんとによその人の罪を責めるのには言葉がいくらあっても足りないくらいだったのに。人のしたことがきたならしく思われて、そのきたならしさがあたしには物足りなくて、その上にさらに泥を塗ってやりたい気持ちだった。そうしてあたしは高見の見物で、偉そうにしていたんだけれど。それが今ではそのあたしが罪にまみれている。だけど――こうなるまでの一切合財のこと、まあなんてよかったんだろう、なんて嬉しかっただろう。(高橋義孝訳)

 ゲーテがどういう考えをこのグレートヒェンの言葉に反映させたかったのかは、正確にはわからないが、「そのきたならしさがあたしには物足りなくて~~」という表現、と言うか洞察はたいへん深いと思う。これは人間がスケープゴートを叩きたがる心理を上手く表したものだとわたしは思う。人を感情的に非難する(建設的な批判ではなく)と言うことは、大抵はしたない行為と見なされるが、誰の目から見ても非難に値するような対象があると、人は喜んでその尻馬に乗っかる傾向がある(お前もやろ、と突っ込んで頂いて結構だが)。すると、身も蓋もない言い方だが、自分より低い存在を見つけて良い気分になれると言う、妙な麻薬のような作用がある。ざっくり言えば、悪口・陰口にはつい乗ってしまうと言う、世間に良くある現象のことだ。ここに、宗教的あるいはイデオロギー的な信念のようなものなどが介在すると、煮ても焼いても刺身にしても食えないものが出来上がる。

 人を見下げるようになると、その心理は、言動や行動、あるいは書いたものなどに現れる。傍目には明白なのに本人は気付かないことが多い。新約聖書のルカによる福音書18章9-14節には、これに関する言葉が書かれている:

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はパリサイ人で、もう一人は徴税人だった。パリサイ人は立って、心の中でこのように祈った。

『神様、わたしはほかの人たちのように、奪う者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。

『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』

言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのパリサイ人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

この喩え話は、別に宗教的な視点で観なくても良い。自分がそのようになり始めた時に気付けたら良いなと思う。と言うか、わたし自身が今この文を書きながら、似たような心持ちになっている。目くそ鼻くそを笑うと言うような話だ。呵々。

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2011年4月26日 (火)

【Heimkehr】 帰郷

Heimkehr (ハイムケーア)():帰郷 …… Heimは家、家庭(engl. homekehrは帰ることを示す。これがHeimkehrではなくHeimkehrerとなると、全く別の意味合いになるがここでは置いておく。

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インターネット接続をWiMAXに変更した。とは言え、今まで使っていたメールアドレスはそのまま残る。WiMAXに変更したのは、これから所在が転々とする環境で、プライベートの用を足しながら仕事もするということになるので、仕事上空白を作ることのできないネット接続を確立するために、無線接続を採用したという次第。すなわち、茨城県南から生まれ故郷の兵庫県に引っ越すことになった。

このタイミングで関西に帰郷するというと、放射線逃亡の嫌疑がかけられそうだが、そうではない。母の容態がいよいよおもわしくなくなりそうで、父ひとりでは対応できなくなることが予想されるという、極めて個人的な事情である。いや、別に放射線が好きというわけではないけれど ^^; 仕事やプライベートのさまざまな事柄が絡んで、なかなかここ数年の懸案事項であった帰郷が叶わなかった。ここで、背中を押されるかのように母が再入院した。

先日、母の見舞いも兼ねて帰阪した。二世帯住むのは困難な実家の近くに家を借りた。二世帯住める豪邸を建て、家にお抱えの医師および看護士/介護士、それから執事を常駐させるには、「少々」先立つものが不足した。

わが故郷の尼崎市は、関東で例えるなら川崎市のような立地である。梅田から最寄り駅まで10分だ。現在、上野から快速で1時間という僻地(何しろ河童がいる)に生息しているのと比べると、驚くほどの市街地生活になるが、それは単に地図上の話で、移ってみれば大差ないと思う。

わたしは大学を出るまではずっと尼崎の自宅に根を生やして生きていた。それから新卒で就職した会社で西日本各地へのハンパない出張暮らしが始まり、事実上家を出たと言える。それから30余年(うげっ)。わが故郷も変わったものだ。何よりも、わたしが通った高校が生徒数の減少によって合併廃校となることが、近頃最大の変化だろうか。市立尼崎東高校というのだが、わたしはその11期生だった(と思う)。二棟の校舎を二本の渡り廊下が繋いだ四角形の中には中庭があり、その中には丸い池があって鯉が300匹ぐらい泳いでいた。鯉を釣るような不心得者はいなかった(と思う)。多分、鯉の味に癖があるからだろう。わが母校は、不思議と、生徒が賢いと言うことでは有名にならなかったが、鯉が見事だということでは可成り有名だった。

その母校も廃校になる。やんぬるかな。先日、母校見納め同窓会なるものが企画されて、わたしにも連絡が入ったのだが、茨城県南から参加することはできなかった。しかし、不動産屋の車で物件を見て回る時、母校脇の藻川の堤防(部活でしばしば走った)から母校の内部がよく見えた。あそこにはもう生徒は通っていないのだと思うと、なんとも切ないものが湧き上がる。わたしの引っ越し先は母校から直線距離で1km以内のところになる。

最寄り駅の本屋で、万城目学の「プリンセス・トヨトミ」の文庫本を買った(昔、よく文庫本の子音B1番目のやつを省略してしゃべって怒られた)。わたしはこれでも関西人の端くれであるから、この辺のタイトルを見たら反応するしかない。早速読んだ。万城目学の作品を読むのは初めてだが、前から「オモロそうな奴っちゃ」とは思っていたのだ。528日からロードショーだと言う。どんな映画になっているのだろうか。

その時わたしはもう「あっち」の土を踏んでいる。「あっち」が「こっち」になる日は近い。

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2011年4月21日 (木)

【Natürliche Strahlung】 自然被ばく

Natürliche Strahlung (ナテューアリッヒェ・シュトラールング)():自然被ばく …… 普通に生活していても人体は放射線被ばくしている。わかっているようでわかっていない事実のひとつだ。

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原発事故に絡んで、原子力に関するさまざまな情報が飛び交う中、この言葉を耳にした人も多いだろう。これは、人間が通常の生活をしていて被ばくする量、あるいはその事実そのものを言う。レントゲン検査などは自然被ばくに入らない。

これには、宇宙から飛んでくる放射線、地球から放射される放射線、そして食べ物や空気に含まれる放射線などがある。

宇宙から飛んでくる放射線も、地球を取り巻く空気の層を通ると可成り弱まるらしく、地表での線量と10000mぐらいの上空を飛ぶ飛行機に乗っている時の線量とでは大きく違い、上空の方が34倍の線量があると言われる。宇宙空間などはもっとだ。宇宙ステーションなどでの長期滞在をすれば、必ず沢山被ばくする。

かと思えば、地球から、すなわち足下からも放射線が飛んでくる。これは地中に含まれているウラン鉱床などからの放射などだ。日本でも中部地方あたりはこの「足下からの線量」が多いそうだ。また、建物の建材や位置などによっても線量が違い、地下街などに入ると当然足下からの線量は高くなると言うことだ。放射線は上からも下からも飛んでくる。

そして体内被ばくである。これが最も怖いと言われているが、ところが人体にも必要な栄養素として知られているカリウムに同位元素があり、これはそれだけ取り分けるわけにはいかない。子供の頃は、料理から人参だけ取り除いたり、ピーマンだけ取り除いたりしたという記憶がある人も多いだろうが、カリウム40だけ取り除くわけにはいかない。他にもラドンガスとかを吸引することもあると言う。

この年間自然被ばく量は、日本の平均で0.81.3mSv[ミリシーベルト]と言われる(国外の値はもう少し高い)。そしてこの放射線被ばくによって引き起こされるDNAの損傷は、我々の身体が持っている修復能力で修復される。これを超えたら全く駄目かというとそうではなく、これに加えてレントゲンやCTなどの検査で一度に大量に被ばくすることがある。たかをくくってはいけないが、人間の身体は可成りの量のDNA損傷をリカバーすることができるのだ。

何が言いたいかというと、必要以上に放射線被ばくを恐れる必要はないと言うことだ。まあ、「必要以上」が「必要ない」のは当たり前と言えば当たり前だ。つまりこれは風評被害のことを言う。最近あったつくば市役所の愚挙のように、調べもしないで怖がっているだけだと、放射線被ばくと伝染病とを同じ視点で観るようなことも起こってくる。怖ければ調べればよいのだ。情報はそこら中にある。昔と違って今はその気になれば、門外漢でも少々のことなら十分情報が獲得できる。

もし、一粒でも放射性物質が身体についたらもうアウトだ、などと考えて恐れている人がいるなら、そこまで恐れる必要はないと言いたい。もちろん、被ばくは極力避けなければいけないが、被ばくした人に対しては失礼に当たらないようにしなければならない。被ばくした人と付き合ってガンになったりはしない。むしろ、被ばくした人に冷淡であったことを怒った誰かによって、階段から突き落とされて頭を打って死ぬという可能性だってゼロではない。そうなったら、無用な用心が寿命を縮めたと言うことになる(←これはほとんど小説)。

人間は誰でも自然被ばくしていること、そしてそこから起こるDNAの損傷を立派にリカバーして皆生きていること、を意識するなら、もう少し落ち着いた対応ができるのではないだろうか。

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2011年4月20日 (水)

【Einsiedlerkrebs】 ヤドカリ

Einsiedlerkrebs (

アインジードラークレプス)():ヤドカリ …… Eremitと言う言い方もある。奴は貝ではなく蟹だとドイツ語は言っている。十脚目の甲殻類だそうだ。

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さて、以前のエントリーで対案のない反対について文句をたれたので、原発の対案について愚考をさらしてみようと思う。暇な人は付き合って欲しい。認識違いも沢山あると思うが、そこはまあ、笑って許してくれへんかww

ものの本では、大規模な原発として出力4000MW以上のものという記載がある。これをキロワットに直すと、400万キロワットと言うことになる(よね?)。すごい数字だ。これをどうやってまかなうか? 考えるのにお金はかからないし、おそらく誰も傷つかないのだから、大いにやろうではないか。それも、環境に負荷を与えない方法でだ。正確に言うならば、環境への負荷ができるだけ少ない方法と言うことになる。

完全なアイデアなど出せなくて当然。あるならとっくに誰かがやっている。さて、不完全ながら実行できそうな発電方法としては、太陽光と風力をあげてみよう。平凡なことを書くようだが、ホンマ、平凡である。問題は、これでどれだけまかなえるのかと言うことだ。そして、どこに造るのかと言う問題もあるだろうし、風のない夜はどうするつもりかと言う根元的な突っ込みもあるだろう。しかし今は、出て来たアイデアを潰して喜んでいられる時代ではない。愚考でも何でも良いから、遊んでいる頭を働かせる方が良い。

太陽光と風力と言ったが、わたしが考えているのは、それも小型である。小型でも沢山集まれば大型になる。何が言いたいかというと、つまり、屋根は日本中にあると言うことだ。この、そこら中にある屋根の中から、とりわけ都合の良さそうなのを発電網に組み込む。

この記事の表題は「ヤドカリ」だが、つまり屋根を借りるのだ。個人宅ではない(排斥はしないが)。官公庁、学校、企業、公共施設などの建築物の屋根を使う。そこで、風のない夜などということはひとまず置いておいて、太陽光や小型風力発電を行い、得られた電力はその建物で使うのではなく送電網に送るのだ。この時、直流から交流に変換をしなければならない。通常の太陽光発電ユニットならこれをパワーコンディショナーと呼ばれる機械で行う。この機械は通常なら家の中に設置されるが、太陽光発電アレイから電力網へ送電する場合、どこでどう変換するかという技術的な問題があるが、これはお金と手間という問題はあるが、純粋に技術的に見るならさほど困難なことではなかろう。

交流と直流については以下を参照されたし:

http://saijiki.sakura.ne.jp/denki1/souden.html

さて、企業の社屋や公共施設などの建物の屋上を借りて電力を得る場合、一軒でどれくらいの電力が得られるのかというと、通常の家庭の屋根でも、太陽光なら5kWhは乗っかるようだ。公共的な建物の屋上なら、控えめに見ても10kWhを見込んでもバチは当たるまい。これで400kWhをまかなうためには、40万の協力者が必要だ。これは可能か? かなりしんどいか? 設置場所は公共的な建物の他にも橋や高速道路なども使える。

ネット内で見つけた数値として、福島第2原発1号機の総工費3565億円(1982年)というものがあった。ものすごいどんぶり勘定だが、太陽光発電10kWh500万円として、同じ経費をかければ、71300カ所設置できる、これが10kWhなのだから713000kWh発電できると言うことになる。当該の福島第2原発1号機の出力は110kWという。少し負けている。これをカバーするためには太陽光発電ユニットの値段を下げて貰おう。ここで引用した値段はだいたい一般家庭が5kW入れるのに200300万円払っていると言うことが根拠だが、この事業で儲けようと思うな、てことで値段を7掛けの350万円/10kWhにしたら、109kW余りとなる。何とかなる(ホンマか?)。

この計算がどこまで意味があるかは正直わからないが、太陽光発電の場合、電力会社がメーカー価格で買い取れば、後は設置するだけだから、一般家庭での値段で考える必要はない。値段的には原発と同じくらいのものなのではないかと(何となく)思われる。原発のプラント寿命がやはり30年くらいで、太陽光発電のモジュールもそれくらいが寿命だという。この辺は、詳しい人が本気でコストパフォーマンスをしたらどういう数字が出るのか? 安全性は段違いなのだから、保守経費まで併せて考えると、太陽光の方がまだ安上がりという結果になりそうな気がしてならないのだ。

さて、協力者に対して多少のメリットは提供しなくてはならないだろう。何しろ自分の財産である建物を発電場所に提供して、そこから得られる電力を使うことはできないのだから、何らかのメリットは要る。そこは電気料金を少しだけ割り引く。それだけで、後はお国のために我慢して頂くってのは駄目だろうか? こういうことが起こった以上、それくらい覚悟を決めてかからなければならないのではないだろうか? あるかないかわからない程度のメリット、損はしていないと言う程度の安心感で、後は善意での協力を仰ぐのだ。

協力者のメリットとして、後はこの発電方式、すなわちヤドカリ式を大々的にアピールすることで、このシステムに参加している企業・団体などはイメージが上がる。ヤドカリ式発電協力企業・団体としてのステッカーやロゴを使用許諾して、それを自由に使ってイメージ向上を図れるようにする。これはこれからの時代では結構ものを言うはずだ。個人個人や企業の意識も高くなっている。ここで、日本人の「善意」が国の財産になるかも知れないではないか。

これを本当に実現するとしたら、政治の力が必要だ。法的な整備も必要だろう。一定規模を超える公共的建築物にはヤドカリ義務と課すとか。また、それこそACにコマーシャルを作ってもらうとかして、大いにこのシステムの浸透を図ることも必要だ。ヤドカリ式に協力することが、大きな眼で見て企業などにとっても利益に繋がるという認識が成立すればやりやすくもなるだろう。そして、電力会社だけではなく、自治体やNPOなどが曼陀羅のようになって機能できたらどうなるだろう?

もちろん「風のない夜はどうするねん」と言われるまでもなく、自然エネルギーは安定供給できないのがネックだ。だから、火力や水力もなくなりはしない。しかし、このヤドカリからのエネルギーの上がり方を見て、火力や水力の出力を制御できるようなシステムはできないだろうか?

わたしは一時、エネルギーに関してこんなことを夢想していたことがあった。このヤドカリ式が良い考えかどうかはともかく、国中が本気で脱原発に取り組める日が来ればと願っている。

ここまでお付き合い頂いた方、お疲れ様でした^^

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2011年4月19日 (火)

【Bestrahlte Brennelemente】 使用済み燃料

Bestrahlte Brennelemente (ベシュトラールテ・ブレンエレメンテ)():使用済み燃料 …… クルマの場合、使用済み燃料はガスになるが、原発の場合は少々事情が違う。

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承前

原発が安全に運用されても、その結果核のゴミが残る。地中深く埋めると言うが、それが本当に安全かどうかの確証はないはずだ。そもそも使用済み燃料と言っても、まだまだ放射線は出るわけで、それは使用済み燃料プールの水が減ってどうしたこうしたというニュースから、も明らかだ。原発の燃料としてパワーが足りなくなっただけだ。それをプルサーマルとか言って再利用するのだが、それだって放射性物質がなくなるまで使い切るような再利用ではない。エネルギーの作り方は開発できたが廃棄物の扱いについてはまだまだ未開発なのだ。今回の地震では、福島よりも震源に近かった女川原発では、あのような事故は(今のところ)起こっていないので、そこから考えれば、これからも原発の運転をさらに安全にして行くことは可能だろう。しかし、ゴミの問題は未解決のままだ。

被災地では、下水道網が破損したために排水ができずに不自由な暮らしをしているところが多いと聞く。下水道が機能しないのだから、水洗トイレなど使うことはできない。人間の暮らしなら、半世紀ほど前の標準に戻れば何とかなる。トイレなら「ぽっとん式」など、方法はいくらでもある。下水道がないのに水洗トイレを使おうという人は出て来ないはずだ。しかし、原発は安全なゴミの処理ができないにもかかわらず突っ走った。

わたしはかつて、原発についてはこの点の不安の方を強く感じていた。そしてお恥ずかしい話だが、原発の安全運用については、どちらかというと楽観していた。安全管理の対策については、ソフトでもハードでも大勢の専門家が大真面目で事に当たっていて、なによりも、モノがモノだけに関係者はそれを極めて厳格に守ってくれているだろうと信じていた。原子力事象の場合、床に粉がこぼれただけでも報告書を書き、国際原子力事象評価尺度に則って1とか2とかの評価をしなければならないのだ。この辺の文書については、仕事の絡みで少し調べたことがあり、その厳格さに驚いたことがあった。もちろんわたしが調べたのはドイツの文書であったが…… 

今回明らかになったさまざまな出来事から、日本の原発運用が極めてお粗末なものであったことがわかった。危険な事柄についての指摘がなされてもそれを無視したり、普通あってはならないことが平然と行われていたらしい。このような独善的な態度の温床となったのは何だったのだろうか。理由はひとつではないだろう。とにかく、するべきことを怠った結果としての事故だったとわたしは思う。これは人災だ。そして何よりも大きな人災は、運用面と言うより、原発を造ってしまった、実用化してしまったことだろう。

脱原発のために具体的にどのようなことをするべきか。素人でも、それぞれが真剣に考えれば何か良い考えが出てくるかも知れない。わたしも以前、脱原発と言うよりは将来のエネルギー対策として、愚案をあたためたことがある。専門家が見ればお笑いぐさかも知れないが、これは技術的と言うよりはどちらかと言うと政治的なアイデアだった。本当に某電力会社に提案書を送ろうかと言うところまで舞い上がったのだ。もう一度考えてみようかな? 

いや、言いたいのは、素人でもそれくらいのことは考えるべき状況なのではないかと言うことだ。大勢が真剣に考えること。そして情報は正しいものを獲得することがとても大切だと思う。風評被害についてもそうだ。聞けば、つくば市では福島からの転入者に放射線測定を行うことを求めた云々というニュースがあってアゴが外れそうになった。伝染病扱いか? 何が本当に恐ろしいのかを把握すれば、このつくば市の件のような過剰反応はなくなるだろうと思う。

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2011年4月14日 (木)

【Halbwertszeit】 半減期

Halbwertszeit

ハルプヴェアツツァイト女性:半減期 …… 放射性核種あるいは素粒子が崩壊して別の核種あるいは素粒子に変わるとき、元の核種あるいは素粒子の半分が崩壊する期間を言う(Wikipedia)。

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 今回の原発事故を契機に、反原発の動きが強まっているが、原発への反対運動は今に始まったことではない。ずいぶん前から至るところでいろんな形で反対運動は起こっていた。

 打ち明けて言うと、わたしは少々冷めた目で見ていた。それは、対案のないままのヒステリックな反対を見聞きすることが多かったと言うこと、いわゆる住民エゴともオーバーラップして素直に共感できないと感じることが多かったこと、そして原子力の怖さについての理解が不足しているように思えたことなどがその理由だった。

 火力発電は、まだ地球温暖化が言われていなかった頃から、公害・スモッグなどと結びついて、やはり歓迎されていなかったと思う。では水力はと言うと、ダムの建設で生態系が破壊されるとか、公共事業のばらまき政治などとも絡んで懐疑的な声も結構あった。それはすべて事実であるのだが、そういう反対運動をしている人たちを見て、(この人達はただ反対したいだけなのではないか?)と漠然と感じていて、共感できなかった。原発にしても、対案もなく客観的な理解もない、底の浅い反対意見を言うひとが周囲にいて、わたしは別に推進派ではないのだが一緒に肩を組んで反対する気にはなれなかった。

 理解が乏しいというのは、原発でも広島や長崎の核爆発と同じことが起こると思っているひとが少なからずいたことを主に指している。科学的(あるいは化学的)にそれはあり得ないと説明されても、その説明を聞くことすらできないひとが結構近くにいたりして、げんなりとしていた。説明を聞く=推進派、と言う図式が頭の中にあったのかも知れない。ほとんどカルト宗教のような感じだ。もちろん、原発が危険なことに変わりはなく、反対するべきものではあるのだけれど、同じ土俵に立ちたくないと思っていた。

 仕事の関係で多少原子力について調べなければならないことがあったので(ずいぶん前)、ある時少し詳しく調べてみたことがあった。その結果、原子力の、あるいは原発の何が恐ろしいのかがほんの少しだがわかった。

 放射線に被曝してDNAが破壊されると言うことだ。

 ただし、人間の身体にはDNAの修復能力がある、そしてその能力はすごい頻度で発揮されている。Wikipediaから引用する:

DNAの損傷は、細胞内における正常な代謝の過程でも1細胞につき1日あたり50,000500,000回の頻度で発生し、また、様々な要因によりその発生頻度が大きく押し上げられることもある。

細胞1個につき、1日に少ない方の50000回だとして、これを24で割り(/hour)、60で割り(/minute)、さらに60で割って(/second)みて欲しい。1秒当たりの損傷回数は、0.6弱(震度みたいだが)という数字が出たと思う。これが500000回なら1秒に6回弱と言うことになる。細胞1個でだ。人間の身体に細胞がいくつあるか、暇な人は数えてみて欲しい。

このDNAの損傷は正常な代謝の過程でもこれだけあるという。人間の身体のDNA修復能力はたいへん高いのだ。そしてまた、こんなに頻繁にDNAが壊されているのなら、何らかの理由で修復機能が損なわれたり、損傷数がキャパを超えたりすると、損傷を受けたまま細胞が増えて行くと言うことだ。

放射線被曝すると、このDNAの損傷が起こるので怖い。広島や長崎の原爆被害の写真などを見て、原発とあの全身火傷の惨状とを結びつけてしまっている人もいるかも知れない。しかしあれはあくまでも爆発時の熱による火傷であって、放射線被曝のもたらした被害とは言えない。

一般では、「放射線被曝する恐れがある」とか、「放射能がある」とか言うと、ショートカットで「怖い」、「危ない」となってしまっているケースが多くはないだろうか。何故怖いのかと聞かれて答えられない人も居るかも知れない。むしろ、「何故怖いのか?」と聞くことの方が「不謹慎」とお叱りを受けそうな気がしないでもない。しかし、「何がどう怖いのか」を正確に把握しておくことで、問題に直面した時の態度も大きく変わる可能性があるとわたしは思う。

ところで、この記事の表題の「半減期」だが、テレビなどでヨウ素の半減期について説明されていたことを覚えている人も多いだろう。多くは、ヨウ素の半減期は短いので(8日)それほど心配しないでもetcという論調であったと思う。これについてはおいておく。

然り。しかしウランの半減期はとてつもなく長い。核燃料に必要なウラン235の半減期は約7億年だそうで、安定性の高いそして地球上のウランの大部分を占めるウラン238は半減期が45億年だそうだ。地球の年齢は約45億年とする説があるが、そうであれば、地球が誕生したころウラン238は、ちょうど今の倍の量あったことになる。ウランよりも半減期が短いと言われるプルトニウムでも24000年かけてやっと半分になる。そして同じ時間をかけてさらに半分になるのだ。

アキレスと亀という話をご存じだろうか? あの場合、アキレスは永久に亀を追い抜けないことになってしまうのだが、実際は違う。放射性物質も1/2そして1/2と減っていくなら、永久になくならないことになってしまいそうだが、実数があるのでいつかはなくなる。ただ、多分、待てない。

こういう物質が使用済み燃料棒に入っている。これをいくら地中深くに埋めるとしても、それで本当に安全なのか? こんな天文学的な長い期間が過ぎてもまだ存在し続けている放射性物質が1箇所にかたまっていること、そしてそれを防護するはずの容器がそんなに長い間劣化せずに残っているのかどうか。原子力や原発について不安視するなら、むしろこういう面に対してではないのか。そういうところに目が向いていないと、議論の争点が「代替エネルギーが確保できるかどうか」というところに流れて行き、結果いなされてしまったりするのだが、本当はそれが問題なのではなかった。

(続く)

参考リンク(Wikipedia):

DNA修復

ヨウ素131

文献:

ドイツの森番たち(集英社)1996

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