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2012年8月 9日 (木)

【Behandlung】 治療

Behandlung(ベハントルング)(女):治療 …… そもそもは、人を元気にするためにという善意から発している行為。現在では、死ぬべき時が来た人を死なせずに、プラス数ヶ月あるいは数年間苦しみを与える行為、になってしまうこともあるらしい。

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少し前によく売れた書籍に、『大往生したけりゃ医療とかかわるな ――「自然死」のすすめ――(中村仁一:著) 』というものがあった。わたしもこれが大阪梅田の紀伊国屋で平積みされているのを見かけ、丁度母が入院していた時期だったので、購入して読んでみた。

医療に対するわたしのイメージはそもそもあまり良くない。

新卒間もない社会人1年生か2年生の頃、出張先の福岡で咳が止まらなくなったので、診察してもらおうと、その日の仕事の合間に某医院を訪れてた。慣れぬ旅先ではあったが、仕事中と言うこともあって吟味も何もなく、最初に看板の見えた医院に飛び込んだ。受付で、保険証を提示し「咳が止まらない」旨を告げた。しばらく待って呼ばれて行ってみると、そこには看護婦さんがでっかい注射を持って待っていた。「お注射しましょうね~♪」 特別注射が怖いというわけではないが、普通ならここで医師が問診をするのが省略されていた。(咳が出る、て言うただけやのに、それだけでもう注射か?)と訝ったが、仕事中でもあり、ここでひと悶着している暇もなかったので看護婦さんになぶられるに任せた。医師の顔を見ることはついになかった。注射の効き目はあったのかなかったのか微妙なところだった。その日以来、わたしは歯科を除いて医者にはかかっていない。

さて、そんなわたしが首記の書籍を読んだのだが、うむ、多少言い過ぎの部分はあるけれど、素晴らしい内容ではないかと思う。善意から出発しているに違いない医療が、昨今では、人生の終章に入った人を却って苦しめる結果になることも多い。この著者は、無駄な治療(すなわち回復の見込みのない治療)を控えて、死ぬべき時に死ぬことが幸せなのではないかと主張している。

わたしの母が倒れた経緯について、記録の意味も兼ねて書いておく。母はそもそも腸に問題のある人で、いつもすっきりしない感じを味わっていたという。便秘薬のお世話になることも多かったそうだが、晩年になって、どうしようもなくなったときには病院でそれなりの手段で排泄させて貰うこともあった。ある時、大腸の内視鏡検査をすると言うことになり、母は「自宅で」下剤を飲んで腸を空っぽにし、それから腸を膨張させる液体(ルーメンとか言ったと思うが)を2リッター経口摂取して、その状態で病院に来るように指示された。母は下剤を飲んだが、それが効き過ぎたようでかなり激しい下痢が起こり(詳細は割愛する)、そのショックで一時は多臓器不全の寸前とまで言われた。免疫機能が低下しており、粟粒結核の危険がある(だったか、兆候が見えるだったか)と言われ、かなり危ない状態だと言われた。わたしが駆けつけたときはまだ意識がはっきりしており、話をすることもできた。後に呼吸から酸素を取り込む効率が落ち酸素吸入が開始され、その流れの中で結核菌が出たと言うことで、専門病院へ転院となった。それから後は、それ以上の結核の病状伸展はなく、4ヶ月ほどで元の病院に戻ってきた。その時、呼吸用のカニューレが気管に取り付けられていた。話すときは自分の指で押さえてカニューレを閉じると普通に話せるそうだが、母は話し難そうにしていて、しかも話す気力がそもそもないようで、著しく口数が少なかった。父は話しかけても母が返事をしないので、まだどこか痛かったり辛かったりするのではないかと不安になったり、返事ぐらいしろと不満に思ったりし、その結果発語用のカニューレを装着することになった。この時わたしは茨城に帰っており、父は独断でこの措置に同意した。どのような説明を受けたのかわからないが、病院側も母の容態を見て長くはないと判断したのだと思う。せめて話がしやすいようにという善意の欠片から取られた措置だったと思う。しかしこれによって、母は栄養の経口摂取ができなくなった。無理に経口摂取すれば気管に入って肺炎を起こすと言われた。そこで胃瘻が開始されたのだ。長くないと判断して栄養の経口摂取の道を閉ざしたのであれば、胃瘻は何のために執った措置なのだろう。栄養を与えることに意味があるのであれば、安易にカニューレの変更をするべきではなかった。しかしここは、父が同意してしまっているのでどうしようもない。要するに父は母と話をしたっかたのだろうと思う。折に触れては「わざわざ遠くまで見舞いに行って話しかけても、ひと言も返事しよれへん」とこぼしていたことを思えば、父の唯一の望みは病床の母と話ができることだったのだろう。これについてわたしが何を思うかは、敢えて書かないことにする。結局母はこの後およそ2年生き延びた。その間、何の飲み物も食べ物も、喉を通ることはなかった。

話を元に戻す。わたしの知人が同じような準備が必要な内視鏡検査を受けたことがあるが、そのときは検査入院をしたという。それくらいするのが当たり前だろう。母が倒れた後、父は血圧が低いと言うことで検便をしたところ、若干の出血の形跡が見られるので検査を、と言われ、母と全く同じ下剤と膨張剤を手渡されて返ってきた。この時は何ともいやな感じであった。わたしは「検査断れ」と意見し、父も同意し検査を断ったところ、すんなり受け容れて貰えたと言う。この辺のプロセスは、老人医療のお約束なっているのではないかと要らぬ詮索をしたくもなる。嫌だと言ったらすぐに受け容れて貰えるような検査なら、そもそも必要のない検査なのではないか。まあ、「何ともないとわかって安心するため」とか、理屈だったらこっちがつけてやろかと言うぐらいのものだ。若い頃から続いている医師への不信感は未だに残っている。医師に完璧を求めるつもりはないが、死ぬべき時が来たら死なせてやるということは、今や却って人間的な優しい考え方なのではないかとわたしは思う。つまり、「何もしないこと」が最善であることも多々あると思う。末期を迎える人に対して「何もしない」ことを悪いことと決めつけるべきではないと思う。もちろん、奏効する治療もあるであろうから、何から何までとは言わないが、「何もしない」と言うことも立派な選択肢であることを、医師も患者も親族も、もっと理解し受け容れるべきではないかとわたしは思う。

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2012年8月 6日 (月)

【Grab】 墓

Grab(グラープ)(中):墓 …… これは一基一基の墓のことを言う。墓地はFriedhof(フリートホーフ)と言う。

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我が家の墓は京都市内の某寺にある。実は元をたどれば寺の血を引く我が家である。墓所はその宗派の本山の本廟にあるのだ。最近の納骨は、わたしが十八歳の時であるからもう大昔だ。母と一緒に祖父の骨を納骨しに行った。まだぎりぎり高校生だったので、詰め襟を着て行ったと記憶している。ここだけの話(って公開しているのだが ^^;)、我が家は母系である。父は納骨については、「仕事あり、興味なし」という状態で、納骨には来なかった。母方の誰かが(所詮養子やからな……)と呟いたことをかすかに覚えている。

十八歳と、脳の記憶機能はすでに出来上がっていたのではないかと思われる時期の話ではあったが、今になって思い出そうとしても、何をどうしたかなかなか思い出せない。寺務所で手続きをして、お坊さんと一緒に墓まで行き、墓前でお経を唱えて貰って、墓石をずらして小さな骨壺を墓の中に入れた。確か、墓に入れたのは小さな、掌に載るぐらいのサイズの骨壺であった。

母が亡くなったので、母の骨を墓に入れなければならない。そして今、実家の母の祭壇には大きな骨壺と小さな骨壺が並んでいる。これは、別に頼んだわけではないのだが、穏坊さんは小さいものを「本骨」と呼んでいてここに、身体の各部から少しずつ骨を取り分けて入れていた。そして大きな骨壺には残りの骨の大部分を入れた。そして、それでもまだ残った骨は「廃棄」された。

骨を「廃棄」すると聞いて驚く人も多いだろう。調べてみると、東日本は全収骨、西日本は一部収骨という風になっているそうだ。事実、北海道で行われた、わたしの義父の葬儀では全収骨であった。穏坊さんがざくざくと木のへらで骨を刻んで、見事にぴったりと全骨をひとつの骨壺に収骨したのを覚えている。しかし、今回の母の骨上げでは一部収骨だった。母は小柄であったせいか、一部と言っても、八割方は収骨できたように思う。

さて、その母の遺骨を満中陰の後で納骨することになるのだが、うろ覚えながら(あの墓にはこんな大きい骨壺は入らないな……)と感じていた。わが親戚筋からは、「うちの嫁さんの納骨は、骨を壺から出して墓の中に入れたな。そしたらそのうちに全部土に帰るやろ」という声も聞かれた。そこで、わたしは取りあえず京都の本廟まで出掛け、まず墓の内部を覗いて見た。場所はない。明らかであった。せいぜいあと二人分(随分リアルな話だ……)。寺務所で質問した。するとその答えはおおよそで、「やっぱり壺のまま納骨すると場所なんかすぐになくなるんで、そのたんびに新しい墓作る言うのもなんですしね。今は、晒しの布にお骨を包んでお墓に入れてます」と言うものだった。これならば、やがて風化するので場所がなくなることはないと言うわけだ。

ところで、その本廟の我が家の永代墓の近くに、我が家と同じ○○家の墓石があった。今までは、そんなところにそんな墓があることに気付くこともなかったのだが、今回は何故かその墓石が「どかん」と目の中に飛び込んできたのだ。寄ってみると、墓石への刻印からこれは親戚筋の墓であることが知れた。母の叔父、わたしから見ると大叔父にあたる人の戒名でしかあり得ない戒名が刻まれていた。今はわずかとは言え、同じ源から血を分けた人の墓であった。思わぬ「出逢い」に驚き手を合わせた(帰宅後、系図を調べると、その記載事項からもそれが母の叔父の墓であることに間違いないことがわかった)。

今思い起こせば、母は自分の血筋との付き合いを大切にしていた。自分はひとり娘で兄弟姉妹がなかったこともあるだろうか。系図や過去帳を見ると、面識はないけれど名前だけは母からよく聞かされていた人の記載が沢山あった。四十九日までの間、人はまだ完全にはあの世に行かないと聞く。直系の息子が墓の様子を見に行くので、母もついて来て「ほら、あそこにもあんたの血筋のお墓があるねんで。行ったら手ぇぐらい合わせるねんで」と教えてくれたのかも知れない。

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