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2013年7月12日 (金)

【Wahlbeteiligungsrate】  投票率

Wahlbeteiligungsrate

(ヴァールベタイリグングスラーテ)(女):投票率 …… 単にWahlbeteiligungで投票率を表すことも多い。語義的には選挙への参加となる。さてこの投票率というものだが、どれほど重要なものなのだろうか。

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 今は7/21の参議院通常選挙の運動が佳境に入っているが、先般わたしの住む街で市議会議員選挙が行われた。わたしが帰郷して初めての市議会選挙だった。共産党が強い。そもそも関西は革新系が強い土地柄で、京都府知事の蜷川虎三さんなども革新系の人だったし、どこだったか忘れたが共産党が与党だという市があるらしい。それと公明党が強い。我が街の場合、完全な組織票で公明党が上位を独占している。わたしが誰に投票したとかはともかく、地方選というのはその土地柄が反映されて、ある意味「面白いイベント」である。国政の状況がそのまま反映されたりはしないのだ。

 さて、その市議会選挙であるが、投票率は40%だった。最初開票率100%の時点で出ていた数字は40%以下だったが、その後の公式発表では40%をわずかながら超えていた。期日前投票を入れた数字なのかも知れない。が、40%以下であれ以上であれ、この数字は低い。革新系が強いとか、公明党が強いとか言う以上に、選挙への関心すなわち政治への信頼および興味が低いというのが、この街の有権者の動向の特徴であると言っても良いだろうか。

 投票率について思い出したことがある。昨年(2012年)東ティモールで大統領選挙があった。これは2002年にインドネシアから独立してから2回目の大統領選と言うことだったが、その投票率は第1回投票が78.2%、決選投票が73.12%だったという。独立してからまだ10年の国では、国民の政治への関心や期待が大きいのだと言うことを感じさせられた。選挙の投票率が低いと言うことは、政治への関心や期待が低いということと言っても良いと思う。そういう状況を作ったのは他ならぬ政治家たちであるし、有権者でもある。しかし、投票率が低いというので、「とにかく投票率を上げよう」という発想になる人たちがどうやらごく少数居るらしい。本来ならば、政治への関心や期待が高まった結果として投票率が向上するのだが、問題意識の持ち方が「投票率として現れる数字」に向かいすぎているのではないか?

 投票率が低いことは嘆かわしいが、かといってやみくもに投票率の数字だけ上げても意味がない。極端なことを言うなら、何も考えないで適当な一票を投じるぐらいなら、選挙に行かないか無効票を投じる方がマシだ。本当の投票率というのは、真剣に考えて投票する人が何人いるかということではないのか。投票率の低いことを嘆くあまりに、「とにかく行って誰かに入れよう。とにかく投票所に行ってみよう」というような呼びかけをする人も居るが、余計なお世話だと思う(投票率が低いと叱られたりする人は、おそらくこういう行動に走りがち)。選挙に行くことを呼びかけるなら、候補者の主張を良く吟味することから呼びかけなければならない。投票行動を啓蒙したいのであれば、そこから始めなければならない。候補者の主張を良く吟味すれば、誰に投票すればよいのか、あるいは投票に値する候補が居るのか居ないのかがはっきりしてくる。啓蒙とはそう言うことだ。有権者もそれに応えるべきだ。でなければ、有権者ではあっても家にいればよい。適当な一票を投じるよりは何もしない方がマシだ。貴重な選挙権を有していながら、何も考えずに鉛筆転がして誰に投票するか決めるというようなレベルで投票することは、ただの「迷惑」だ。貴重な選挙権の使い道について真面目に考えることのできないような奴は選挙に行かないで欲しい。その方が余程国の為になる。なぜかと言えば、いわゆる浮動票(大部分が気分次第の適当な投票)というものが増えれば増えるほど政治家はポピュリズムに走るからだ。政策や政治理念で勝負できない。政治家がポピュリズムに走れば、民主政治は衆愚政治になる。だから、選挙を真面目に考えられないような馬鹿は家でじっとしているか、どこかに遊びに行けばよい。

 投票率というものは、残念ながら「有権者の何%が投票したか」という数字でしかない。「何%の有権者が真剣に投票したか」を測る術はない。だから、投票率はせいぜい参考程度でしかない。ただ、真剣に投票した人の割合は算出された投票率よりも低いことは確かだ。投票率とはそう言う意味での指標だ。投票行動を呼びかける際は、「とにかく行け」という論調ではいけない。身体だけ行っても、何も考えていなければ、誰に投票するか決めることができない。だから、単なる有名人に投票したり、織田信長や聖徳太子、あるいはAKB48の推しメンに投票したりする馬鹿が出てくる。まあ、「敢えて」するというのなら、何も言わないが。投票行動を啓蒙したいなら、候補者の主張を吟味することを訴え、あるいは吟味の仕方を教え、吟味に使用できるデータを提供すること(そのデータの存在を広報することも含む)が大切だ。「選挙というのは行っただけでは駄目なのだ」という当たり前のことを言わないでどうするのか。選挙について真面目に考えようと言う呼びかけを、面倒くさく感じるような意識の低い人は選挙権を与える値打ちがない。しかし、選管がそれを決定する権限はないのであるから、「真剣に考えることのできない人はどうぞ来ないでください」ぐらいのスタンスで居て良いのだ。選挙は、政治について真剣に考えている人間だけが行けばよい。選挙権がありながら、それを真面目に活用しようとしない者は、選挙の結果だけを甘んじて受け入れればそれで済む。真剣に投じられた一票と適当に投じられた一票とが等価であるのは民主政治の陰の部分だと言って良い。しかし、残念ながらこの「一票の格差」は制度で是正することができない。巷間話題になっている一票の格差よりも、この一票の格差の方がわたしは問題だと思う。

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2013年7月 8日 (月)

【Wahl】  選挙

Wahl(ヴァール)(女): 選挙、選ぶこと、他 …… さて、母の一周忌も済んだので、そろそろブログでも書くべい、と思ってみると、選挙がすぐそこだ。国民として、選挙には行かなければならない。しかし、投票するならよく考えてしなければならない。ワシの票を浮動票扱いはさせへんで。

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選挙毎日というサイトがあり( http://senkyo.mainichi.jp/ )、そこには手回し良く、今回の参院選候補者へのアンケート回答が掲載されている。回答は選択肢から選ぶものだが、選択肢以外の回答については「非該当」となっているのが何とも役人仕事のようで脱力する。選択肢だけで答えきれるような設問ばかりではないのであって、非該当の回答にこそ知るべき情報が含まれているのではないかとも思う。まあしかし、おおよその傾向は把握できる。各候補者も、選択肢だけで答えきれないものに対しては、敢えて非該当の回答をしたか、あるいは無回答にしたのだろうとも思う。不本意な選択肢しかないような場合はもちろん無回答か無効回答になるだろう。しかし、それがあまりに多い候補者もどうか? と思ってしまう。非常に微妙だ。

ところで、一連の質問の最後には東京の小中学生500人に考えて貰った質問というのが7つあった。そのなかで、「外務大臣は英語が話せる人に限るべきだと思いますか、思いませんか。」という質問があった。わたしなら、「絶対思わへん」と答えるぞ、これは。外相という役職は、外交をするのが仕事であるから、外交センスのある人が勤めるべき職である。外交センスと外国語能力が一致するとは限らない。むしろ、どんなに英語等が達者でも、大抵の場合母語と外国語とでは表現力が違いすぎる。下手に自分で喋るより、語学の専門家に任せるべきだ。外相の語学力を云々するよりは、そのような公的な場における通訳者の技能および良識の育成に努めるべきだろう。

毎日新聞が言うように、この質問が実際に小中学生から出て来たものと仮定しておこう。では、彼らはなぜこのように考えるようになったのかを考えれば、やはり安直な「語学力信仰」が背景にあるのではないかと思う。別な言い方をすれば「バイリンガル信仰」とでも言おうか。しかし、ひとつの(あるいは複数の)言語を身につけているというのは何も特別なことではないのだ。それが証拠にドイツ語なんか、ドイツに行けばガキでも喋っているではないか。バイリンガル教または語学力教の信者の皆さんは、「複数の語学をマスターしている=インテリジェンスが高い」、というぐらいの簡単すぎる考え方をしているような気がする。しかし、バイリンガルなんて、それが当たり前の環境で育てばバイリンガルになる。希少価値ではあるが、インテリジェンスの高低とかとは関係がないと思う。むしろ、日本人が互いに日本語で会話しても、話が通じないことがあるという事実に気付くべきだ。国語力、ひいては語学力そしてコミュニケーション力というのは、小さい頃から訓練すれば誰でも向上すると言うものではない。絶対音感というものなら、適切な時期に鍛えれば大抵の子供はその周波数の音を覚えてしまうだろう。しかし、絶対音を持っているからと言って、必ずしも歌が上手いとは限らない。それと同じだ。コミュニケーション力(または表現力、理解力)を向上させるのには、手技的感覚のトレーニングではなく、知性を刺激するような環境が大切なのではないか。

学校における英語の早期教育にはわたしは反対だ。むしろ、国語力をつける方向で考えて欲しいものだ(教師の国語力も含めてな)。

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