エッセイ

2012年1月31日 (火)

【Ersparung】  節約

Ersparung(エアシュパールング)(女):節約 …… 以前からボンビーな人々にとって重要なテーマだったが、震災以来さらにこれが重みを増してきた。「なくても困らないものがある」というのは、「豊かさ」の一面だが、すなわち一面にしか過ぎない。

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原発事故前後の東京電力の大不始末とその傲岸は、日本国内はもとより世界中から軽蔑されたが、これによる一連の節電騒動(?)は、節約ということに対する真摯な問題提起となったのではないだろうか。

わたしは昭和30年代に生まれ、高度成長期のただ中で育ってきた。そのせいか、節約というと「貧困のせいで」という単細胞的な発想が心根にあると(我ながら)感じる。しかし、環境意識を高めて考えるなら、節約という行為は貧困とは無関係である。むしろ、「足るを知る」ことから出た節約は人間の進化した姿ではないかと思う。節約と言うよりは無駄をなくすということか。

さて、震災後各方面各家庭で節電への取り組みがなされているが、その中でトイレの温便座をOFFにするという事柄があった。なるほど、トイレの便座に座っている時間は1日のうちわずかだろう。大家族でも便座占有時間はさほどではないのではないだろうか。そしてしかも、大抵の家庭では便座の蓋が上げられているとなると、暖房効率も悪い。あの蓋についてはわたしはもう随分前から「蓋を閉じる派」である。そもそも使っていないときに閉じなければいつ閉じるというのだ。折角蓋が付いているのに勿体ないではないか。蓋を閉じれば暖房効率も上がる。これも一種の節電であるが、OFFにすればもっと節電になる。

しかし、お年寄りのいる家庭など、便座が冷たいせいで心臓麻痺でも起こされたら嫌だと思うだろう。誰だって便座の上で死にたくはない。昔は畳の上で死ねるかどうかが人間の幸福の尺度のひとつだったと聞くし…… そういう場合、温便座をOFFにしろとは言いにくいが、冷たい便座への対応策はある。

ひとつは太腿の下に手を差し入れるというわかりやすいやり方だ。これは緊急時に良い。

もうひとつは、まず服を着たまま(下ろさない、またはたくし上げない状態で)便座の上に座って30秒~1分待って、便座が体温で暖まってからおもむろに開始するという方法である。トイレを安息の場と考えている人も多いと聞く。ならば、事後ではなく事前にもすこしゆっくりしてみてはどうかと思うのである。

この方法をあみ出したのはドイツで暮らしていた頃だった。ドイツのトイレは日本の家庭のトイレのように便座カバーがかかったりしていない。そもそもそれは「不潔だ」と彼らは感じるのだ。「毎日取り替える」では足りない。それは「1回単位」でなければならぬ。確かにそうだ。だから、便座はあのプラスチックの素材そのままで使用する。事前に専用のグッズで拭き掃除をしたり、紙の便座を使うと言うこともあるが、それはあくまで清潔のためにであって、冷たい便座を回避するという発想はない。今はどうだか知らないが、当時はトイレというのは「そういうもの」だった。「その程度で当たり前」のものだった。

しかし、ドイツは寒い国である。ギャグも結構寒いが冬はもっと寒い。夜間に外気が氷点下10℃になったりすることもある。寒い日に車を運転していて、うっかりフロントウインドウをウォッシャーで拭いてしまったら、フロントガラスが一気に氷で覆われて肝を冷やしたこともあった。そんな国で冷たい便座は辛い。もちろんトイレにもセントラルヒーティング(ハイツングという)が完備されているのではあるが、便座が暖まるほどトイレ内部を温めたりはしない。そこでこの自分の体温で温めるという方法を実行し始めたのである。これは安い。体温を保つのには結構かかっているだろうとは思うが、しかしこの経費は「タダ」と考えて差し支えないと思う。

この方法についてとある若い友人に伝授したところ、彼は早速やってみたそうだ。そして報告してくれた;「あれ、やってみたんですけど、はい、良いと思います。ただ…… あ~、あの~、身体がですね、便座に座ったら『もう良いんだ』と反射的に思うらしくて、危ないところでした。少し慣れる必要がありますね……」

そうかも知れない。そもそもトイレに行くときはすでに危なくなっているのであるからして、身体は開放されることを欲しているのであるからして、座る前にしっかりとSchliessmuskel(括約筋)を締めておかなければならない。できれば、座る案件の場合は余裕を見て行くべきである。これを彼に言うのを忘れていた。

彼は幸い持ちこたえ、悲劇は起こらなかったそうだ。たしかに、分別のある大人なら、悲劇が起こることはおそらくないだろう。

それにもし何か起こったとしても、それは「喜劇」だ。

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2011年6月17日 (金)

【Barbierstube】 床屋

Barbierstube (バルビーアシュトゥーベ) ():床屋 …… 英語ならBarber shopと言うところか。英語でbarbershopと言うと、「床屋」の他に「男声の」、「密集和声の」という用法もある。これは19世紀のアメリカで、床屋に集まった男達が無伴奏でカルテットを楽しむのが流行したことに起源を持つ言葉だ。

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 ドイツ語でbarbierenと言えば「髭を剃る」という意味で使われる。床屋は髭を剃る店だった。現代では床屋と言えば月に一回行って「一ヶ月分切って」と言って椅子に座る店のことを指す。しかし、美容院に行く男なども増えており、床屋に行く=ダサいみたいな図式が出来上がりつつあるような気がする。しかし、かつて男達がもっと男であることを楽しんでいた頃、朝床屋に行って出勤前に髭をあたって貰うと言うことが普通に行われていたと言う。わたしの在独時代の行きつけのミュラーさんは、「俺が若かった頃は、みんな仕事に行く前にうちの店に来て髭を剃っていったもんだよ。もう、朝は忙しくてね、客も俺も立ったままで髭剃りだったな」などと懐古していた。お代も安かったのだろう、3マルクとか5マルクとか言っていた記憶がある。

 以前このブログで、床屋について書いたことがある。その趣旨は、「大阪の床屋は上手い。ちばらぎの床屋は下手くそ」というものだった。それは、髭を剃る腕前、と言うより考え方=姿勢の違いだ。大阪の床屋で顔を剃って貰うとホンマにつるつるになる。顔剃りの後、客に自分で顔を洗わせてつるつるになった、すなわちしっかり剃ったことを確認して貰うと言うことが当たり前になっている。ちばらぎの床屋の顔剃りは、東電の記者会見のようなものだ。事後、触ったらもうざらざらだ。だからわたしはいつも、ちばらぎで床屋に行く時は電気剃刀を持っていって、店から出たら車の中で髭を剃っていた。この現象は複数の店で見られた。わたしはごっつ不満だった。

 関西に帰ってきて、床屋に行く暇もなかったのだが、母の見舞いに行った帰りに床屋を見つけて飛び込んだ。そこは、カットだけなら900円というえげつなく安い店だったが、それはそれで有り難い。つまり、こういうスタンスの店なら、すぐに終わるだろうという計算が成り立つのだ。こういう値段だから回転をあげないと採算が取れないからだ。そもそも、女性と違って男の場合は髪の毛が短くなればそれでよいのだ。ガキの頃からそうだったが、わたしは、いかにも「ついさっき床屋に行ってきました」という「正座したような」髪型が嫌で、床屋から出たらすぐ頭を「わしゃわしゃわしゃ」とやっていたものだ。床屋は早ければ早い程よい、と言う程度に考えている。ただし髭はきちんと剃って貰いたいが……

 そう言うわたしは、実は三月初頭から髭を伸ばしている。今回は安い店で触られるのが何となく嫌で、カット+洗髪にして貰った。カット+洗髪で1200円だ。これに顔剃りも入れると1500円。セットメニューにはモーニングサービスと言うのがあって、トーストとゆで卵は出て来ないが、平日午前中は200円ぐらい割引してくれるらしい。今度は早めに行って髭もあたって貰おうか?

 わたしが入店した時、2名の先客がいた(椅子も2脚だけ)。そして順番待ちが1名。しかし10分でわたしの番になったのは、見込み通りだ。順番を待ちながら仕事っぷりを見ていた。腕はよいと思う。早くあげるために、別の言い方をすれば900円分のサービスで収めるために、たいへん手際よく仕事を進めていた。そして、そのカットだけの客のカットが終わり、合わせ鏡で見せてOKを貰ったら…… なんと、客の頭に掃除機を当てた。ど~ん。もちろん「どたま専用」の掃除機に決まっているが、これはええな~と思った。女性のカットはどうだかわからないが、男の短髪のカットは毛屑が大量に発生して頭に付着する。これを除染、もとい始末するのにはブラシや刷毛でお上品にやるよりは、掃除機の方が断然効果があると思う。

 日本の床屋で、バーバーショップ・アンサンブルが普及してくれないだろうか……

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2011年6月 8日 (水)

【Zuhause】 家で、故郷で

Zuhause (ツーハウゼ) ():家で、故郷で …… 他にも「精通している」という時にも使う。フランチャイズやから何でもお手のもん、と言うほどのニュアンスか。

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早いもので、尼崎に越してきてからもう2週間が過ぎた。越してきてすぐに大口の案件がひとつ入ったために、仕事部屋は今でも雑然としている。どうせ地震が来たらまたぐちゃぐちゃになるのだと思うと整頓する気にならない(嘘)。この2週間のうちに2回、父の奇襲に遭い慌てた。近くに住むと言うことはすなわちこういうことだ。夜遅くまで段ボールと格闘した翌朝、携帯電話で起こされて、「おい、今、家の前におるんじゃ。玄関開けんかい♪」という…… orz

この街はわたしの生まれ育った街である。住む地区はもちろん違うが、それでもこの空気を知っている。今まで国内外でパンパではない回数の引っ越しを経験してきたが、新しい土地に越して行ったのと比べて、やはり何か決定的に違うものがある。これが「帰郷」と言うものなのだろう。風景はずいぶん変わった。昔のたたずまいの残っていそうなところもあるが、見る影もないところもある。この街には大学を卒業するまでずっと根を生やしていたのだが、不思議と記憶に残っている風景は、皆、腰の高さから見たものばかりだ。

こちらに越してきてから縁の深くなる新しい風景は、十三である。「じゅうさん」ではなく、もちろん「どらいつぇ~ん」でもなく、「とうさん」でもなく、「じゅうそう」と読む。十三の駅は、阪急電車の神戸線、宝塚線、京都線の分岐駅で、ある意味梅田以上にぶいぶい言わせている。街も昔からぶいぶい言うている。今は亡き藤田まことさんが「十三のねえちゃん~♪」と高らかに歌い上げたあの街だ。以前読んだ高村薫の「神の火」という小説(奇しくも原発ジャックのお話しだ)の舞台のひとつにもなっている。母がこの十三の駅からほど近いところにある病院に入院しているのだ。毎日というわけには行かないが、結構頻繁に行くことになる。病院から駅へとたどり着くまでに、数々の誘惑と戦わなければならない。幸い夜に歩くことはないが、これはまさに歌舞伎町を突っ切って何もしないで新宿駅に向かうようなものだ。今までも度々誘惑に負けて、串カツやたこ焼きにちょっかいを出してしまった。これから先が思いやられる。

こちらでの生活は、「ちばらぎ」に居た頃と違って、車への依存度が少ない。確か尼崎は面積が狭いので人口は45万人程度(昔は55万人ぐらいまで増えた)で、兵庫県で3番目ぐらい(姫路に抜かれてめっちゃ悔しい)だが、人口密度が半端でなく全国でもトップ10に入るらしい。そんなわけで、車で出掛けたらPを見つけるのに往生し、見つけたら今度はP代を払うのに往生することになるのだ。家から阪急園田駅まで15分ほどを歩く機会が増えた。これからは少し運動不足が解消されそうだ。これで、ボディが再び締まって、また「もててもててこまる」ようになったらどうしようか(爆)。

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2011年6月 4日 (土)

【Umzug】 引っ越し

Umzug (ウムツーク)():引越 …… 普通、家を移ることだが、この他にも同じ棟の中で部屋を替わることを言ったり、データを古いパソコンから新しいパソコンに移すことを指す場合もある。どちらにしても、引越はしんどい。

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 引っ越した。

 今まで住んでいた茨城県南、通称『ちばらぎ』と呼ばれる地域から、生まれ故郷の尼崎に引っ越した。実家からほど近いところ、中学生なら10分以内で走っていけるあたりに移り住んだ。この引越は数年前からの懸案事項、いつかはしなければならないイベントだった。

 それにしても、引越は疲れる。大抵の力仕事は引っ越し屋さんがやってくれるのだけれど、それでも疲れる。思えば、先回の引越をした時は、まだ四捨五入で百歳にはなっていなかったのだから体力も落ちようと言うものだ。

 前の日記にも書いたのだが、これは放射線逃亡ではない。まあ、電気代逃亡だったりする可能性はある。あと、地デジ逃亡か…… 関西地方にはサンテレビという阪神タイガースの広報担当の放送局(嘘)があり、これがUHF局なので、大抵の関西人にとって地デジ化は痛くも痒くもない筈だ。我が家では、以前から「帰阪」と言うことが懸案事項だったので、ギリギリまで地デジ化対応はしていなかった。そして、何もしないまま退去してUHFの国へ移住することになったのであるから、この点では「上手いことやった」と言うべきだろう。新居には、当然のように地デジ対応のアンテナが付いていた。

 さて、大家に退去を申し渡してから1ヶ月の間、じっくりと荷物をつくり、そこら中で最後っ屁をかまし(多分嘘)、合計80kgほどのゴミをクリーンセンターに持っていき、移動当日(5/25)を迎えた。

 S引越センターに荷物を託し、不動産屋に鍵を渡して、手荷物を車に積み込んで出発した。これで、関東地方ともお別れだ。これで、直進車両に先んじて右折して行く名人ドライバーの皆さんにお会いすることもないだろう(今まで随分いろんなところで運転してきたが、この手のテクニックを駆使するドライバーはこのあたりでしかお会いできなかった)。

 圏央道から常磐道に入り、それから首都高を突っ切って東名に入るわけだが、よくよく考えてみると、三郷から用賀に向けて首都高を走るのは、おそらく10年ぶりぐらいだ。今までは、車で関西を指して走る場合、早起きして明け方の一般道で川崎あたりまで行って、それから東名に乗ったが、大抵は、飛行機、新幹線、路線バスと、極力自分で運転することのないように計らっていたのだった。

 驚いたのは山手トンネルと言うものができていたことだった。お陰で宝町とか飯倉とか銀座とか言うランプを見納めていくことにはならなかった。まあ、特別見納める必要もないのだが…… 見た覚えのない場所を看板だけを信じて走るのは、少し不安でなおかつつまらない。幸いだったのは、看板に嘘が書かれていなかったことで、お陰で本当に用賀まで辿り着くことができた。東京電力や政府と言う公的な存在ががあれだけ嘘をつきまくる国で、これはもしかしたら奇跡かも知れない。

 移動の数日前、久しぶりの長距離の高速走行を前に、近所のスタンドで安全点検を受けた。ワイパーブレードを替え、後輪タイヤを新品に替えた。お陰で、ドライブは快適だった。燃費も通常で10km/Litterぐらいの我が車が、まあ、高速走行ではあるのだけれど、15km/Litterぐらいで走ってくれた。守谷SAのヨーグルト風味のソフトクリームが眠気を覚ましてくれた。夕焼けを背に映える富士山が美しかった。足柄SAの牛飯が美味かった。滋賀県の竜王PAで仮眠を取って時間を合わせて現地入りした。不動産屋で新居の鍵をもらってくるためだ。およそ600kmの高速走行をした我が車のエンジンはたいそうご機嫌が良いように見えた。軽やかだ。思えば、この車を買ってから本格的な高速道路走行は今回が初めてだった。さぞや沢山のバルブの煤が落ちたことだろう。

 久しぶりの長距離走行を終えて、腰が痛くなるかなと思っていたがそれはなかった。でも、その替わり、肩が痛くなった。思えば何時間も同じような姿勢でハンドルを握りっぱなしなのだから、肩のひとつやふたつ痛くなっても不思議ではない。みっつ痛くなったら少しばかり不思議かも知れない。

 とにかく、荷物も住人も無事に着いたのはなによりだ。しかし、本当の引越はこれから始まるのだ。

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2011年3月24日 (木)

【Benennung】 命名

Benennung (

ベネンヌング)():命名 …… 名前を付けること。今回は地震および災害の命名について書いてみた。名前の付け方など、本来いちばんどうでも良いことなのだが、どうでも良くないことを書くには、気分も見識も相応しいところにないのだ。

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 今回の地震は、わたしの個人史の中でも最大の災害だった。阪神・淡路大震災は実家が少々被災したが、自分自身はドイツにいたので、共に体験したという感覚にはどうしてもなれない。

 さて、まず地震の名称について。こんなもの本当はいちばんどうでも良いことなのだが……

 4行前に阪神・淡路大震災と書いたが、その正式な名称・呼称について、Wikipediaに以下のように記載されている:

阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)は、平成7年(1995年)117日(火)に発生した大規模地震災害。地震発生時は気象庁が「兵庫県南部地震」と命名。その後政府(内閣府)が復旧・復興施策の統一名として「阪神・淡路大震災」と呼称。平成7214日に閣議口頭了解した。

 気象庁が命名したのは地震である。閣議で決定されたのは災害の名称だ。確か、最初は一般的に阪神大震災などと言われ始め、それから「淡路島もめっちゃ被災しとるのに、なんで阪神だけやねん?」と非難の声も上がっていた記憶がある。しかし地震の名称である「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」というのはいかにも響きが堅苦しくて、すぐには口から出て来ない感じがある。一般の感覚から言うと災害名である阪神・淡路大震災が、もっとも普及された呼称に思えるのだが、もう一度、Wikipediaから引用する:

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17日の災害発生当時、気象庁は命名規定[4]に基づき、地震を「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」(The South Hyogo prefecture Earthquake in 1995)と命名。

しかし、気象庁による正式名称に先立って毎日新聞が「阪神大震災」と呼び始め、他の報道機関の中にもこれに追随する動きが出始めた一方、朝日新聞や日刊スポーツでは「関西大震災」。読売テレビでは「関西大地震」と呼称していたこともあり、様々な呼び名が入り混じっていた。

その後、政府が、今回の災害の規模が大きい事に加えて今後の復旧に統一的な名称が必要であるという観点から、淡路島地区の被害も大きかったことにより、「関東大震災」に準え、災害名を阪神・淡路大震災」と呼称する事が214日の閣議によって口頭了解された。224日には、5年間の時限立法として「阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律(平成7年法律第12号)」が制定(即日施行)された。この時から「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになり、この名称が現在でも使用されている。

この名称については、「阪神」にも「淡路」にも該当しない明石市などから、「大阪市と神戸市および中間地域」「両市を含まない中間地域」いずれの意味においても「阪神」という言葉は被害の実態に即していないとの批判もある(特に前者の意味でとらえるなら、被害が軽微であった大阪を示す阪の字が名称全体の先頭に来ている)。

 なるほど、明石あたりから見れば「ふざけんな」と言うところなのか。災害の名称なのに被害の実態に即していないということだ。やはり気象庁の命名した地震名「兵庫県南部地震」の方が災害名としてもまだ妥当だと言うことになるか。

 気象庁に地震の命名規定というものがあるというのも初めて知った。これは命名の仕方ではなく、“100kmよりも浅い直下型・M7.0以上、同じく海洋型・M7.5以上・全壊100棟程度以上”などの「こう言うときには地震に名前を付ける」と言う規定のことだ。

 さて、重複するが、注意するべきなのは、「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」は「地震の名称」であり、「阪神・淡路大震災」は「災害の名称」であると言うことだ。一般には、地震の名称と災害の名称とを区別するという感覚はないと思う。しかし、実際にはいわゆる「あの地震」にはこのように2つの正式名称が付いているのである。

 さて、今回の大地震(災害名)にも数種類の名称が使われている。

 気象庁の行った地震の命名は「東北地方太平洋沖地震」と言う。相変わらず堅苦しい。そして災害名称として、東日本大震災、東日本大地震、東北・関東大震災、東北・関東大地震などの呼称が使われている。これは災害名であるので終わり方は「大地震」ではなく「大震災」の方が適切なように思う。始まり方の方は、「東日本」とすると、「北海道は入れへんやろ」と言う声が上がりそうだが、漏れるよりはマシだ。「東北・関東」とする場合は、中黒「・」が大事だ。これがないと関東地方の東北部と混同する。それに最後の五文字が関東大震災となると、被害の主体が関東にあるように感じる人も出てくるだろう。そして大正12年のあの有名な災害とかぶると言うのもあまりうまくない気がする。ちなみに、関東大震災は、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震(関東地震)による災害である。ここでも、地震名は「関東地震」であり、災害名が「関東大震災」なのだと読みとれる。

 わたしは最初、今回の地震は「東北大震災」ぐらいに落ち着くのではないかと感じていたのだが、思った以上に茨城県の被害も大きい。茨城県を除外するわけにはいかないだろう。

 この311日の初アタック以降、太平洋プレートと北アメリカプレートとの境界線地帯(三陸沖、宮城沖、福島沖、茨城沖、千葉東方沖など)はもとより、長野県北部、新潟県中越、静岡東部などでも大きな地震が起こっていることも考え合わせれば、東日本と大きく括るのが妥当なように思う。

 東京など首都圏は被害がまだ小さいと言われるが、浦安ほかの地域の液状化現象も深刻だ。23区内でも足立区、荒川区などは計画停電の対象に入っているし、計画停電なら富士川までは東電管内だし、群馬も栃木も電気を止められている。これも地震災害の一環だと考えることができるだろう。

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2010年12月29日 (水)

【BMW】

BMW(ベーエムヴェー)(固有名詞、略語):Bayerische Motorwerke AG の略。またはその製品(自動車)。訳すなら、「バイエルン発動機株式会社」???

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 これは言わずと知れたドイツの名車である。ドイツの車であるからドイツ語読みが正しいと思う。自動車ファンの間では、「ベンベ」などと間の抜けた呼び方をされていた。今の日本での平均的な呼び方は英語読みのビーエムダブリューでこれですでに略語であるのに、さらに略してビーエムと言われたりもしている。しかし、単にBMとなればBaumarktだってBMだし、「馬鹿なマドモワゼル」だってBMではないか。略しすぎだ。ベーエムヴェーと呼べ、ベーエムヴェーと。さもなければ「バイハツ」だ。

 ドイツ滞在中、わたしもBMWに乗っていた時期があった。

 ボンビーであったわたしは、中古車しか買うことができなかったが、知り合いの自動車親方が安いのを回してくれた。多分利益なんかほとんど取らなかったのではないかと思う。

 最初に買ったのはOpelAsconaと言う車だった。落ち着いた緑色の車体が好ましかった。20年ほど昔の話であり、その時点で車が築10年以上だったので、30年以上前のテクノロジーの車だった。涼しいドイツのこと、エアコンなど付いていなかった。知り合いの自動車親方が1300マルクで売ってくれた。当時のレートで10万円ぐらいだったろうか。「120km/h以上で3分以上走るな」と言われたが、なかなか調子は良かった。

 Asconaが老衰で走れなくなったので、次のを親方に探して貰った。そして嫁いできたのがAudi 80 だった。値段は同じく1300マルク。今度は紺色の車体。「130km/h3分以上走るな」と言われた。普通、Audiと言ったら車のフロントにあの有名な四つ輪違いの紋所が付いているのだが、わたしのはそれが付いていなかった。確か、取れていたのではなく初めから付いていないモデル。それほど昔の話であった。当時の新しいAudiには四つ輪違いが付いていたので、悔しくて、アクセサリー屋で少し小さめの四つ輪違い(フロントではなくリヤに付いているサイズの)を買ってきて、強力接着剤でフロントに接着して走っていた。このAudiは心臓病で倒れた。

 その次に来たのがBMW318だった。これは、当時入っていた合唱団で同じパートにいたフォードのディーラーの大将がわたしのために3800マルクで仕入れたのを3500マルクで売ってくれた。彼は算数が苦手だった(嘘)。

 赤いBMWだった。BMWと言えば青白の市松模様とフロントの鼻の穴である。鼻の穴とは何のことかと思う人も居るかも知れないが、写真など見れば一目瞭然。車のフロント、ラジエタグリルのど真ん中に∞のマークを横から押し縮めて四角くしたようなのが付いている。これが鼻の穴にしか見えないのだ。これはBMWのNieren(腎臓)と呼ばれる。ネットで調べたら、日本ではどうやら「キドニーグリル」と呼ばれているらしい。しかし、やはりわたしは鼻の穴に一票。まあ、ラジエタグリルであるから、そこから息を吸い込むのは事実だ。

 当時、BMWの新しいものはヘッドライトが左右に2個ずつ付いていた。わたしの買ったモデルはまだヘッドライトが1つずつのものだった。当時はそれが少し恥ずかしかったのだが、実際の所四つ目玉のBMWよりも二つ目玉のBMWの方が男前だったと思う。それまでのAsconaAudi 80の倍以上の費用を掛けただけあって、実によく走ってくれた。公用私用を問わず、これに乗っていろんな所に行ったものだ。色が赤かったので赤兎馬と呼んでいた。赤兎馬とは三国志で関羽が乗っていた馬として有名だ。

 この赤兎馬が結局わたしがドイツで私有した最後の車になった。仕事では公用車が使えるようになった。車種は同じくBMW318eで色は黒。しかも最新モデルだった(リース)。走りも装備もわたしの赤兎馬とは雲泥の差だったが(何しろエアコン付き)、記憶に残っているのは赤兎馬の方だ。それにこの新型、鼻の穴がだだっ広くてブサイクだったのだ。この公用車が来たので、赤兎馬は私用だけで使うようになった。以前、この車について余所で書いたら、ミニカーの画像のリンクを教えて貰ったことがあった(飛魚さん、その節はどうも^^)。もう路上を走る姿は見られないであろう、二つ目玉のBMW。ビーエムなどと呼ばないで欲しい。

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2010年12月20日 (月)

【KKFW】

KKFW(カー・カー・エフ・ヴェー)(略語):Kernkraftwerk(原発)とはなんの関係もない。ましてやKernkraftfeuerwerk(原子力花火)でもない。Dudenを引いてもおそらく載っていない。況んや広辞苑においてをや。これは、Kopf kühl, Füße warmの略で、「頭寒足熱」のことである。

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毎年この時期になると、KKFWについて対策を考えるのである。しかしこれについては未だに結論が出せないでいる。

自宅で仕事をする身であるので、理論的には就労環境については100%自由がきく。しかし、四季はフリーランサーの思惑を100%無視して巡って行く。頭付近の気温が上がると、翻訳物の品質、生産性などに大きく影響するので問題は結構深刻だ。

単に足下を暖めれば良いと言うわけにはいかない。阿呆と暖かい空気は高いところへ昇る。足下を暖めてくれたらそれで後は用はないのに、連中はそのあと上に昇ってきて頭まで暖めてくれるのだ。足下をピンポイントで暖めると、頭もピンポイントで暖まる。足下をピンポイントで暖めて頭の辺りに扇風機の風を送るのはどうか。電気代が倍かかるし、ひょっとしたら風邪を引くかも知れないので不可。部屋全体を暖めて頭に氷枕を当てるのはどうか。部屋全体を暖めた場合、大抵足下は涼しい。何度も言うが阿呆と暖かい空気は高いところへ昇る。そこへ持ってきてわざわざ頭を冷やすのは暖房の無駄であると思う。

結局、自前の熱を使用することになる。今年も毛布巻きになって、椅子の上で胡座をかいて働くことになりそうだ。自前の熱はいちばん具合の良い暖房だと思うが、席を立つ度にリセットされてしまうのが悔しい。

今月初頭の誕生日に、妻がくれたものの中に靴下があった。よく、冷え性の奥さんが家で履いているような、滑り止め付きのもこもこのアレである。婦人物ではないかと思うのだが、足は小さい方なので使用に耐える。なかなかに暖かい。北海道生まれの妻は、Hokkaider(in)のスタンダードで、室内はがんがんに暖めて半袖のTシャツでアイスクリームを食べるのが理想らしいが、冷え切った部屋で毛布にくるまりながら仕事をする夫を見て「見るだけで風邪を引く」ような気分になっているのだろう。しかしこの方がおそらくPCにも良いはずだし、地球温暖化防止にも微力ながら貢献している。今年の冬は、暖靴下と毛布、いよいよとなれば足裏用使い捨て懐炉で乗り切ることになるもようだ。

そう言えば、ドイツ人も足が冷えるのを嫌う。ドイツに居た頃、知人が手製のパントッフェルン(Pantoffeln)をくれたことがある。カートッフェルンもよく頂いたが、これは食べ物である。パントッフェルンは、辞書では「スリッパ、室内履き」と書かれているが、わたしの周囲でパントッフェルンと言えば、長靴の形に成形された少しごついものだった。でもソールは入っていないので靴と言うよりは靴下だった。人によってはしっかりとしたソールを入れて使う場合もあるだろうか。洗うことを考えれば、ソールはない方が良いかも知れない。

ところで、今年の3月以来休んでいたこのブログを、また開始することにした。クリスマスが近づいてきたので、樅の木が目をさましたと言うわけではないのだが…… 更新頻度は文藝春秋並みになると思われるが、内容が文藝春秋並みになることは永遠にないだろう。

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2009年11月16日 (月)

【Bleistift】 鉛筆

Bleistift(ブライシュティフト)(男):鉛筆 …… 昭和40年代の兵庫県尼崎では、これを「えんぺつ」と言うていたガキが結構いた。オッさんやおばはんも言うていたかも知れない。「きつねうどん」が「けつねうろん」になるのと原理は同じだ。

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 鉛筆と言えば今でもれっきとした筆記用具であるが、昔よりも売上げは落ちていることだろう。シャープペンシルなるものが生まれたせいで、そちらにお客を取られているに違いない。わたしもシャープペンシルが出始めた頃(そう言えば、わたしはその時代をリアルで知っている)、シャープペンシルに飛びついたものだった。折れてもすぐ、折れる前と同じように書けると言うことが何と言っても革命であった。おそらく、象が踏んでも壊れない筆箱よりも、折れてもすぐ書ける鉛筆の方が誰にとっても有り難かったはずだ。なぜなら、当時尼崎には野生の象は居なかったので、筆箱を象に踏まれる心配がなかったからだ。無駄な発明とはこのことを言う。ノーベル賞がもらえなかったはずだ。せめて、「オカンが踏んでも壊れない」ぐらいにしておけば良かったのに。

 ところで、鉛筆と言えば「削る」必要がある。ドイツ語で鉛筆を削るという場合、「Bleistift spitzen = 鉛筆を尖らせる」と表現する。やはり鉛筆は尖っているのがよろしいのである。そして、その昔、鉛筆を削ると言ったらナイフで削るに決まっていた。しかし、わたしが小学校に上がった頃すでに鉛筆削り機と言うものはあった。あの、手動でクランクをぐるぐると回すアレである。削りカスが容器の形に圧縮されて、ごみ箱に落としても四角いままなのが可愛かった。もっと簡単なものは、剃刀の刃が斜めに付けられた穴に鉛筆を突っ込んで回す、あのわかりやすいアレである。そして、わたしが小学校低学年の頃が丁度電動式鉛筆削りの出始めだったと思う。当時の子供の勉強机に、手動式が載っているか電動式が載っているかは、偏にタイミングと経済力のほんのちょっとしたバランスの違いであった。わたしの勉強机には、高校卒業するまで手動式が付いていたが……

 わたしよりも上の世代になると鉛筆削りはナイフである。彼らは単に「そうしていた」だけではない。とても上手かったのだ、鉛筆削りが。

 わたしの父の叔父には四人の娘が居た。父の従姉妹にあたる。「若草物語プラス」である。わたしが小学生の頃、彼女たちは中学生と高校生であり(父の叔父は父の父とかなり歳が離れていた)、同じ尼崎市内にいたので比較的頻繁に顔を見ていたが、彼女たちの勉強机には鉛筆削り機がなく、その替わり机の引出しにナイフが入っていた。鉛筆削り機を買うお金がなかったと言うよりは、ナイフで削れるのにそんなしょーもない機械買うのは勿体ないと言う発想だったのではないだろうか。彼女たちの削った鉛筆は芸術的に美しかった。

 わたしもナイフでの鉛筆削りには何度も挑戦した。父も母も鉛筆とはナイフで削るものと言う認識であったから、今時の親たちのように「危ないから持たせるな」等という発想は欠片もなかった。「怪我でもしたら次から気を付ける」というほどの発想であった。ついでに言えば、近所の子供の誰かが麻疹に罹ると「一緒に遊んで伝染して貰え」と言われた。免疫ができるからであり、早めに感染しておく方が軽く済むと言う認識だったためで、わたしも麻疹チャイルドが出たら、「ぼくもなるねん!」と言って遊びに行っていた(が、なかなか伝染らなかった)。

 話を元に戻そう。わたしも、ナイフでの鉛筆削りに挑戦したが、「取りあえず芯は出てきてるな。字は書けるな」という程度のものであった。一気にざっくり削りすぎるのだ。削った後の机の上には、鉛筆の削りカスではなく、削り塊が転がっていた。わが父の従姉妹たちは、そうではなく薄皮を剥ぐようにすこしずつ丁寧に鉛筆を削っていった。削られた鉛筆を見れば判る。幅1ミリ程度、長さが5ミリ程度の小さな切削面が、まるでミラーボールの表面のように並んでいた。子供心に「何でこないに上手う削れんのかなあ?」と感心していた。やはり、女子の几帳面さなのか、手先の器用さなのか(口先も器用だったなあ…)、はたまた鉛筆削りの上手い娘が持てたのか……

 鉛筆削りにコツがあることを知ったのはかなり大きくなってからだった。右手にナイフを持ってナイフの刃を向こうに向ける、そして左手の人差し指、中指、薬指などで鉛筆を保持し、鉛筆に触れていない左手親指を刃の背峰に置き、左手のその他の指で握った「鉛筆を動かして削る」、すなわち左手の親指でナイフを押すような方向に力は伝えられるのだが、右手でナイフをしっかり固定していると、ナイフは動かずに鉛筆が動くのだという基本に気付いたのはいつのことだったろうか? とにかく、ナイフは動かない。動くのは鉛筆の方なのだから危ないことなどあるはずもない。鉛筆が怪我することはあっても、指が削れることはないはずだ。危ないからと触らせないのではなく、安全な使い方を教える方がよほどためになる。

 わたしより下の世代は、「鉛筆とは機械で削るのが当然」な世代だ。今時の子供達のご両親も、そうやって育ってきたはずだから、ナイフで鉛筆を削ることのできないオトン&オカンも大勢いることだろう。しかし、「突っ込む」→「うぃ~ん」→「出来上がり」というのは何とも味気ない。そしてさらに、現代ではシャープペンシルを使うのが普通と来ている。そのうち、学校の方からシャープペンシルを使わない日を設けるなどの提案が出てくるのではないかと思うほどだ。

 中学の技術の時間では、製図のための鉛筆の芯の削り方を習った。太さが変わらないように、鉛筆の芯を紙ヤスリやナイフなどで削って平板状にするのだ。これも、筆記用具の発達で、最近では行われていないのだろうか? ひとつの「便利」がそれまでの工夫をすべてこの世から消してしまいかねないと言うのも、なんだか頂けない話だと思うのだが……

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2009年9月26日 (土)

【Ferienjob】 学生アルバイト

Ferienjob(フェーリエンジョプ)(男):学生アルバイト …… ご存知の方も多いと思うが、アルバイトとはドイツ語で「仕事」を指す。学生などが休暇中に行う小遣い稼ぎなどはこのFerienjobを使う。Ferienarbeitという語もあるが、これには休暇中の課題(宿題)の意味もあるので日本語の学生アルバイトならFerienjobと表すのが適切。最近日本では、いい大人でもアルバイト待遇の人が多く、Ferienjobを単に「アルバイト」とは訳せなくなってきている。悲ピー。

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 多くの人がそうであったように、わたしも社会人になる前にはいくつかのアルバイトを経験した。

 生まれて初めてのアルバイトは、高校生の時に卓球部の仲間と一緒にやった、近在の電報局での年賀電報の配達のアルバイトだった。部員のお母さんが電報局で働いていたことから湧いてきたFerienjobだった。電報局に詰めていて、電報が届いたら住所を確認し自転車に鞭当てて年の瀬の空気を突っ切って疾走していた。遊軍的な動きの仕事で、結構楽しかった。この頃から将来フリーランスで働く下地が磨かれていたのかも知れない。

 それ以降、某有名スーパーの家電売り場で扇風機担当の売り子をしたり、某有名百貨店の缶詰め売り場でお中元商戦に参戦したり、家庭教師のようなこともしたし、某有名通信教育で現代国語の添削をしたり、レコード流通会社で埃にまみれながら返品整理を担当したりもした。

 いちばんきつかったのは、某クリーニング「工場」での流れ作業だった。このクリーニング工場は主にリネンのクリーニングを請け負っていて、具体的に何が回ってくるかといえば大抵は近在のラブホテルのシーツだった(ロゴ入り)。洗濯の終わったシーツを伸ばして大型のシーツ用アイロンのローラーにかける仕事だった。これが息を抜く暇がなくて、これほどみっちり働いたことは今日に至るまでない。フリーの翻訳者になってどんなにタイトな仕事が来ても、息を抜く余裕は正直言ってたっぷりとある(でなければ、ろくな仕事にならない)。身体は辛かったが、近在のラブホテルの名前は沢山覚えた。ただし、その知識が役立つことは一度もなかった (^m^)

 学生時代のバイトでいちばん楽しかったシーンのことを思い出した。

 それは、大学一年生か二年生の冬休みのバイトで、兵庫県K市にある有名スーパーDでのバイトだった。以前尼崎の我が家の隣に住んでいたご家族がK市に引っ越していき、その奥さん(つまりわたしにとっては隣のおばちゃん)がスーパーDでパートをしていらしたのだった。真面目な子を探しているからとわたしに話が回ってきた。わたしは、幼少時から大人を騙すことにかけては可成りの才能を発揮していたのでこれは当然であった。

 このスーパーDは後に某プロ野球チームを所有することになるのだが、その後経営不振でプロ野球チームからは手を引いた。そのプロ野球チームは、今では島帰りの男の二の腕に入れられた入れ墨のような二本ラインをユニフォームの腕に入れていることで知られている。元々は関西の電鉄会社のチームだったのだが、巡り巡って今は日本の西の方の島にその本拠を置いている。わたしがバイトしていたのは、まだスーパーDがプロ野球チームとは何の関わりもなかった時代である。

 夏休みにそのスーパーDの家電売り場で扇風機を売っていた。そして、その続きで冬休みには「受け渡し場」での仕事をさせて貰った。冬には扇風機を売らない方針だという理由である。冬の受け渡し場は吹きっ晒しでたいへん寒かったが、仕事が多かったのでそれほど寒い思いもしなかった。一個あたりは小さい荷物が大量に入荷したようなとき、例えば細長い段ボール箱に入ったネギが2トン車一杯着いたと言うようなときは、トラックの扉からパレットやケージの位置まで、その辺にいる男達がジグザグに向かい合って並び、品物がジグザグに飛んで行くように、一種のバケツリレー方式で荷受けするのが面白かったのだが、もっと楽しく働いたシーンがある。

 受け渡し場のすぐそばに鮮魚売り場のバックヤードがあった。品出しの担当者が休みだとかで、夕飯の買い出し客の増える時間帯、すなわち三時の休憩の後から五時まで、わたしともうひとり気の小さそうな美形の学生アルバイト君とが二人応援に入った時のことだった。

 鮮魚をパックにして値札シールを貼ってトレーに入れる担当のおばはんのところに連れて行かれた。

おばはん:「あんたら根性あるんやろな!」

樅の木:「あります!」

相棒:「は、はい……」

おばはん:「(美形の方を見ながら)大丈夫かいな? 元気な方の兄ちゃんも口だけとちゃうやろなあ?」

 なにやら意味もなくアグレッシブなおばはんであった。「兄ちゃん、タイヤキに鯛入ってるか?」とか「なんやったら鉄板焼きにテッパン入れたろか!」とか叫んだら似合いそうなおばはんであった(謎爆)。とにかく、そこにおいてある魚を場所聞きながら品出しせいと言われ、わたしと気の小さそうな美形の相棒は鮮魚売り場のバックヤードを駆けずり回り始めた。

 最初はもちろん慣れていないので仕事も遅い。

「ちゃっちゃとせんと、いつまで経っても終わらへんで!」

 相棒は最初小さくなっていたが、だんだん機嫌が悪くなってきていた。顔を見ればわかる。この気の小さい相棒ですらそうなのであるから、わたしはもっと仏頂面をしていたに違いないが、鏡を見る暇もなかったので事実は永遠に謎である。まあ、「あの人いっつもあんな悪態ばっかりついてんねん。気にしたらあかんよ」と教えてくれた別のパートの若奥様が「あんたえらい仏頂面してるで~」と言ってはいたが、目が悪いだけかも知れないではないか。

 ちょうど隣り合ったところで品出しをしているときに、相棒がわたしに言った。

相棒:「あのおばはん、腹立つ~」

樅の木:「仕事でなかったらケツ蹴ってるとこやな」

相棒:「ひと泡吹かせたりたいなあ」

樅の木:「戦うか?」

相棒:「戦うって?」

樅の木:「思いっきり早よう品出しして、あのトレーの山空っぽにして、『おばはん早よせんかい』て言うたるとか」

相棒:「できるかなあ?」

樅の木:「できるかどうかより、やりたいぞ俺は」

相棒:「言えてる! やろ!」

 それから青年樅の木と気の小さそうな美形の相棒は、青筋立てて稲妻のように鮮魚バックヤード内を三倍速ぐらいで縦横無尽に走り回った。冬の鮮魚売り場バックヤードという、暖かさの欠片もないような環境ではあったが、わたしと相棒は珠の汗を顎先から滴らせながら(もちろん品物にはかからないように気を付けていた)、顔を真っ赤にしながら息を弾ませていた。すべては、「おばはん早よせんかい」とひとこと言ってやるためにであった。

 おばはんの脇に積まれたトレーの山が低くなる。富士山が八甲田山になり、さらに筑波山になり若草山へと変わっていく。すると、だんだんおばはんの眼の色が変わってきた。残されたトレーの枚数が5枚前後になってからがまさに鍔迫り合いであった。丁度今のセ・リーグの三位争いのようなものだ。品物の陳列場所がわかっている場合は、ひゅっと飛んでいってしゅっと戻ってくる。トレーはどんどん減って行く。しかし、陳列場所がわからない場合は場所を教えて貰ったりして時間がかかり、残り2枚だったトレーが6枚に増えていたりする。

「あ、あんたら、あんたらなあ…」

 おばはんは何か言おうとしているが、仕事中に無駄口叩いている暇はないのだ。それくらいのモラルもわかっとれへんのか? と、わたしも相棒もそれには取り合わずに、ただひたすらにトレーを抱えて飛んだ。周囲もこの鍔迫り合いの意味がわかっているらしく、仕事をしながらちらちらとこちらの様子を窺っている。興味津々の「頑張れ!」の視線を背中に感じて、青年樅の木と相棒は燃えた。

 2枚残ったトレーにわたしと相棒が同時に飛びつく。品出し場所に飛ぶ。品出しして戻る。トレーは1枚も残っていない。(やった!)と思ったら、おばはんも残っていなかった。

「お~い、ご苦労さん。もう五時やから上がってええで~」

 鮮魚主任のお気楽な声が聞こえた。タイムアウトだった。残念!

 トレー溜まりでしゃがみ込んでぜいぜい言っているわたしと相棒。そこに件のおばはんが疲れ果てた顔をしてやって来た。

おばはん:「もう、あんたらにはかなわんわ~」

樅の木:「惜しかった……」

相棒:「もうちょっとやったのに……」

おばはん:「わたしここで働いてて初めて、こんな時給でやってられん、て思たで。ほんま、たいがいにして欲しいわあ」

主任:「いや~、二人ともえらい機敏やったなあ。また来てくれるか?」

おばはん:「もう来んといて! いつものぼんくらでええわ!」

一同:爆笑 (^o^)/

 翌日、いつものぼんくら氏が「バイトの方がよっぽど役に立つとか言われてえらい災難や」とぼやいているらしいと言う噂を聞いた。わたしと相棒は、『今度こそやるぞ!』と固く誓って、仕事が終わった後、売り場に回って鮮魚の陳列位置を確認するほど入れ込んでいたのだが、いつものぼんくら氏はそれ以降休まずに仕事に来ていた。リベンジの機会に恵まれないまま、受け渡し場で件のおばはんを見かけた時に相棒と二人で手を振ってやったらおばはんは照れていた。

 そして冬休みはあまりに短かった。しかし、件のおばはんはもはや憎たらしくはなくなっていた。

 あれから三十年以上が経つ。いまではわたしも相棒も、当時の件のおばはんよりも年かさになった。件のおばはんはまだ元気で生きているのだろうか? あの気の小さな美形の相棒は、今頃どこで何をしているのだろう?

 

 

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2009年8月17日 (月)

【Widerholung】 繰り返し

Wiederholung(ヴィーダーホールング)(女):繰り返し …… 日本語化した英語ならリプレイと言うところだろうか。人生には繰り返してみたいものもあれば、二度と繰り返したくないものもある。一般に後者の方が多いらしいが、それが勉強と言うものかも知れない。

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 ところで、人生そのものは決してリプレイできない。誰もがそう思っている。

「あの時、ああしていたらどうなっていただろう?」

「あの時、ああしていなかったらどうだっただろう?」

「あの時、あの娘と結婚していたらどうなっていただろう?」

 などなど、決してリプレイできない故に妄想は膨れあがる一方だ。

 ところが、わたしはその決してできないはずのリプレイをしてしまったのである。

 別に不思議系の話ではないのだが……

 わたしが新卒で就職した某社は、衣料品関係の商社だった。商社と言っても機能的に商社であるだけで、巷では商社と言うよりはアパレルメーカーとして通っていた。

 周囲の人は「哲学科を出てなんでアパレルに?」と疑問に思っていたようだ。わたしとしては、哲学科に進んだのは美学専修で音楽美学をやりたいという動機があったので哲学科を選んだのだが、就職については何も考えていなかった。

 むしろ、就職のために進学先を選ぶのは「汚い」とまで考える書生頭であった。わたしが大学進学する前の頃は、「何故猫も杓子も大学へ行くのか?」とか、「大学へ行く意味は?」とか言う問いかけが同年代の間で頻繁になされていたような記憶がある。大学へ行って熱心に勉強するよりも、勉強以外のいろんなことを体験する方が人間の幅が拡がると言う考え方の方が優勢だったと記憶しているし、実際そう言う学生が大勢いた。熱心に勉強する学生はどこか「小物」のように思われていたように記憶している。

 本来なら(今思えば)、大学というのは熱心に勉強するところであり、そこで学んだことを社会に出て役立てるのが尊いのであるが、そう言う考え方はあの頃は可成り手厳しく排斥されていたように思う。日本の大学が駅弁大学化していて、大学とは社会に出るまでのモラトリウムとさえ言われていた。大学に進学する動機も、本音は「良い会社に就職するため」であり、その就職とは(その本人にとっては)大学名という看板でなんとかなる程度のもの、と言うケースが多かったのだろうか。だから、社会に「大学進学の意義」について疑問を呈する論調が幅をきかせていたのだろう。

 最近の大学がどうなのかわたしは知らない。しかし、「全入時代」とも言われる現代である。大卒の肩書きがあっても潰しは効かないだろう。また、会社に身を寄せると言うこともそれほど大きな安心にはならないご時世である。まあ、大学で何を学び何を経験するのかについて考えると、奥が深すぎてどうにもならないので、閑話休題。

 わたしは、新卒でアパレルの会社に入った。そして、しばらくは営業で頑張っていたし、そこそこの成績もあったのだが、体をこわして退職した。それから運命の悪戯によって、他人に言えないこともいろいろとこなし(?)、今日こうしてドイツ語の翻訳を生業にしているのである。この人生をリプレイすることはできない。もしも体をこわしていなかったら? それは誰も知らない、知ることはできない。それが普通だし、実際にわたしがその「もしも」の人生を実際に確認できたわけではもちろんない。

 

 新聞を開くと、わたしは必ず株式欄などに目を通す。

 為替レートは仕事にも直結するし、株価などもざっとは目を通しておく方がなにかと役に立ったりする。そのとき、昔勤めていたあの会社の株価もチェックするのだ。「元気かな?」という程度の意識なのだが……

 その会社の株式が、ある日見えなくなった。

 監理・整理銘柄になっていたのだ。不渡りを出したのだった。資金繰りについてはまだ不透明なようで、もしかすると倒産と言うことになるかも知れない。その兆候は以前から薄々感じていたので、それ自体は驚きではなかったが、わたしがもしその会社に居続けていたとしたら……? 実際はそう言うことはあり得ないのだけれど、居続けていたらこの年齢であるからそこそこ責任のある位置に居たはずだ。そしてやっと人生半世紀をやりすごしたこの時期に会社がこの状態になっている。

 もっと言えば、内定が出る寸前まで行って結局肘鉄を食らわせた同業界の某社も、同業界の大手の完全子会社になっている、それも今年。どっちの会社に入っていても、そこに居続けていたら(つまり会社内ではある程度の成功を成し遂げてリストラもされずに生き残っていたら)、それでもこの時期には遂にアウトと言うことになっていただろうと思う。そうすれば、この年齢になってしかもこのご時世で失業ということになり、子供もいたかも知れないし、家のローンもまだ残っていたかも知れない。今のわたしの現実の状況よりずっと厳しいorz

 実際は、わたしは会社組織でうまくやっていくとか、得意先相手に営業で華々しい実績を上げる等というような資質は持ち合わせていないので、決してそうはならなかったはずだが、それでもこの想像はずっしりと来るものがある。現在、この百年に一度のなんとやらのお陰で、自営業者は大変なのである。サラリーマンが羨ましくなったこともあるのだ。

 そこでこの事実。

 今この年代で経済的(もしくは経営的)な苦しさを味わうことは、すでにセッティングされていたかのような感覚がある。

 これがこの文章で「リプレイしてしまった」と書いたことの中身なのだが、まあこれをリプレイと呼ぶのは適切でないかも知れない。ただ、この新卒で入った会社の苦境を知るということを通じて感じたことは、久しぶりに少し心に染み込んでくる味があった。「たら」を考えるべきではないといろんな機会で言われるが、それは「リプレイできないから考えても無駄」だからではなく、どこでどう選択していても、「たら」の人生に入っていっても、結局同じ結果を体験することになるように思う。それは、人生での出来事というのは、幸不幸を問わずその人にとって必要なことであり、その人の中身が変わらなければ必ず訪れてくることなのだと言う感覚である。

 平たく言えば、「堅苦しい人」は、人生のどんな場面でどんな選択をしていても、その(おそらくは人から歓迎されないであろう)堅苦しさの故に似たような運命をたぐり寄せるということに似ている。「怠け者」しかり、「優柔不断」しかり、悪い面ばかりではなく「明朗快活」しかり、「頭脳明晰」しかり……

 過去を振り返って「もし~たら」を考えることの不毛さ感じた。

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